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釧路日台親善協会
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2014-2015釧路ロータリークラブ 第28回(通算3346回)例会
会長の時間
会長挨拶 田中 正己 会長
皆さん、こんにちは。山辺ガバナー補佐、濁沼実行委員長からIMのお話しをしていただきますが、私も先週の例会で今回のIMについてお話しをさせていただきました。是非、皆さんで参加をして、大会を盛り上げていただければと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
話は変りますが、1月は、『ロータリー理解推進月間』です。ロータリーの理解推進は、いわばロータリーの広報活動の活性化です。2010年の公共イメージ調査によると、ロータリアンではない人の家では、平均62%の人がロータリーの名前を知っているそうです。しかし、ロータリーがどのような活動を行っているかをある程度知っている方は、そのうちわずか37%に過ぎないという結果が出ています。ロータリーは、地域社会と世界の人々に恩恵をもたらす多くの活動の実績があり、110年にも及ぶ歴史があるにも関わらず、ロータリー活動はほとんど認識されていないのです。
ロータリーの戦略計画の優先の項目の1つに、『公共イメージと認知度の向上』があります。そこには、5つの目標があります。1つは、イメージとブランド認知を調和させる。2つ、行動を主体とした奉仕活動を推進する。3つ、中核となる価値観を推進する。4つ、職業奉仕を強調する。5つ、クラブにおけるネットワーク作りの機会に、並びにクラブ独自の主な活動について周知を図るようクラブに奨励する。とあります。
最近は、ロータリーのロゴが変り、ホームページも大幅に更新されました。また、今年度のゲイリーC.K.ホアンRI会長は、ロータリーを継承しロータリーの存在感を地域社会に高めることを強調しています。
これからは、戦略計画に添って、公共イメージと認知度の向上を実現するため視覚的効果と最新の情報技術によるメディアを積極的に活用してロータリーのイメージをブランドとして確立する活動なのです。ブランドは信頼が重要です。また、他に視覚的に優れた要素が必要です。企業で言えば製品やサービスの品質に対する信頼がブランドとなります。
ロータリーにおける品質とは何かと言えばそれは、ロータリアンひとり一人の人格と奉仕活動の成果ではないでしょうか。このようなことを念頭に置き、その存在意識を理解し今後もロータリー活動を推進して行いたいと思います。
詳しくは、今月号の『ガバナー月信』『ロータリーの友』に載っておりますので、是非参考にしていただきたいと思います。よろしく
国際ロータリー第2500地区第7分区・
釧路東ロータリークラブ・IM実行委員長 濁沼 英一 会員
釧路ロータリークラブの皆さんこんにちは。本日は、貴重なお時間を拝借いたしましてIMのお願いに参りました。会長からお話しがありましたように、3月7日、当『釧路センチュリーキャッスルホテル』にて、14時〜19時30分の予定で開催をいたします。テーマは『もう一度学び直そう本来のロータリー』、サブテーマとして『親しみやすいロータリーであるために』。このテーマの下に、第一部では奥周盛ガバナーに基調講演をお願いしております。第二部では、清水パストガバナー、足立パストガバナーに講演をお願いいたしております。
清水パストガバナーには、第7分区のロータリーの歴史をよく熟知しておられることから、地域性を主眼にお話しをいただきます。足立パストガバナーには、昨年、帯広の地区大会の『地区指導者育成セミナー』にて、パネラー5人の方に事前に配られましたアンケートの結果から、それをまとめられたお話しが非常に分かり易く意義ある内容でしたので、会長・幹事だけが聴いたのでは非常に勿体ないという山辺ガバナー補佐の思いで、皆さんに聴いていただきたいとしてお願いをしています。
また、友愛の広場では、地元のフォークデュオ・ヒートボイスの歌とトークで楽しくご歓談していただければと思っております。
来る3月7日のIMに、釧路ロータリークラブ皆さん全員登録のお願いと、1人でも多く当日参加していただくことをお願い申し上げまして、実行委員長としての挨拶とお願いに代えさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
国際ロータリー第2500地区・第7分区 山辺 文彰ガバナー補佐
貴重な本日のプログラムの時間を拝借いたしまして申し訳ございません。少しお話しをさせていただきます。
ただいま実行委員長よりお話しがありました今回のテーマ『もう一度学び直そう本来のロータリー』と、『親しみやすいロータリーであるために』というサブテーマについてですが、このサブテーマの根底には、上に南無が付いて、南無ガバナー、南無パストガバナーという私の想いが潜んでおります。南無≠ニは、仏様の世界でしか使わないとお思いかと思いますが、南無≠ニは「その者を信頼して自分の心を寄せますよ」「貴方をお慕いして私の心をお任せしますよ」という意味です。もっと簡単に言えば「I LOVE YOU」です。ですから、「いままで培ったロータリーの知識、それらをどうぞ私たちに分かり易くお分け下さい。信頼をして、この心を寄せますから」ということです。
何故、このサブテーマにしたかというと、「ロータリーがあまりにも難し過ぎる」という人がほとんどかなと思っています。入って2〜3年位の人には分からないことが多すぎます。次々と信号・ロータリー用語が出て参ります。それを理解するまでに、凄く時間がかかります。ロータリーを熟知している人は、平気でロータリー用語をそのまま使ってお話しをされると少々困ります。ですからそのようなことを極分かり易く、と。
それから、もう一つ、退会の原因になっています。会員増強・退会の防止は何処のクラブでも頭を悩ます課題ですけれども、そのようなことの要因になっていることは、ロータリーが難し過ぎること、お金が掛かり過ぎること。それから、人間関係の不具合等が要因となっていますが一番の要因は、分からなさ過ぎる、詰まらない、そのようなことだと思います。ですから今回、奥周盛ガバナーは、非常に分かり易くお話しをして下さる方です。清水パストガバナーもそうです。足立パストガバナーもそうですけれど、非常に分かり易くロータリーを教えて下さる方々です。この方々に私たちは、“南無”をして、心を寄せて、そして分かり易いロータリーを享受していただこうという考えの下にこのようなテーマとなっています。
生意気なことを申し上げるようですけれども、どうぞロータリアンとして小学生になったつもりで、もう一度ロータリーを勉強するつもりで、このIMに臨んでいただきたく思います。
よろしくお願いいたします。失礼いたします。
本日のプログラム
年男大いに語る
プログラム委員会 委員長 中山 峰啓 会員
皆さん、こんにちは。プログラム委員会・中山です。本日は、天方副会長からご案内があったとおり、急遽、ロシアンルーレット会員卓話ということです。いま、演台に抽選箱が置いてありますけれども、その中に23名の方がエントリーされております。但し、エントリーされている中で、関向さんが急遽空港へ行かなければならないということで除外されます。それから、黒田幹事はお見かけしたところマスクをしていますので、黒田幹事も免除ということでよろしいでしょうか。ということで、21名の方が対象となります。
最初に田中会長に抽選をしていただきまして、その後、スピーチの方が順次抽選箱から1名ずつ抽選をして、「当り」の方が順番にお話しをしていただくことにします。田中会長、1回目の抽選をお願いいたします。
本間 榮一 会員
こんにちは。また立たせていただきます。何かお話しをするということで、そうですね、本日お見えになっております濁沼さんは、私と湖陵高校の同期ということで湖陵高校のことを少しお話しさせていただきます。
私は、平成元年から湖陵高校の学校歯科医を行っていて今年で27年、毎年検診をさせていただいております。全日が今年は700名、定時が70名で、大体午前中一杯はかかります。 最初の平成元年から3・4年、古い校舎で行っているときは、1200名〜1300名位おりましたので、うちの歯科衛生士を2人を使って3人で、午前中をかけて懐かしい方がいるとは思いますけれども図書館で行っていました。
段々減って、700名ということですが、最近の湖陵高校の生徒は本当にきれいな口の中をしています。昔はそうでもなかったのですが、最近の歯科の場合は、ある程度の経済力と一生懸命勉強をするということでかなり改善されて来ております。
ところが、定時制の方は、昔は、苦学生ということで、働きながら高校へ通うというお子さんが大多数でした。が、この10年くらい、昼に学校へ行っていじめに合って登校拒否ということで夜に。または、少し考え方が変っているお子さんが。苦学生が通っているということが凄く薄れて来ているように感じられるところです。
あと3年で30年ということです。これからも一生懸命、母校・湖陵のために検診をして行きたいと考えております。大多数が多分先輩だと思いますので今後とも湖陵高校へご寄付をひとつよろしく。ここに同窓会長もおりますので、名前は伏せておきますけれども今後ともよろしくお願いいたします。
舟木 博 会員
久々の大当たりで、今年は何か良いことがあるのかなと思っています。先日ロト≠ナ7億円が当たって釧路にも億万長者が新しく誕生したということです。道を歩いていて、何かニヤニヤしていたら、そいつかなと思っています。
それでは、私のところは米屋なので、米の話なら1時間でも2時間でも出来ると思います。久しぶりに米の話をさせていただきます。
北海道の米の発祥地というと、渡島管内だったと思います。中山久蔵さんという方が始めた『赤毛』という種類のお米です。ノギ≠ニ言って、お米の実の先の方にトゲというか、長い線のような赤い毛があります。それが赤毛という名前の特徴です。実は、北海道の開拓が始まったときに「お米は作ってはいかん」ということで、禁止された作物でした。その中で、米をどうしても作りたいという人が隠れて色々と作っていましたが、なかなか上手く行かなかったのです。いまなら非常に暖かいですけれど、明治20〜30年頃では積算にしたら今から100度以上低いと思うので、お米を作るとしたらギリギリというよりも、ほとんど出来ないような状態だったと思います。ですから、初めて作ったときは、半分は“くず米”だったと思います。
釧路でも米作りを行っていた方が沢山おりました。色々な所から入植されていて、自分で“もみ種”を持って来て一生懸命作っていました。場所は、阿寒の舌辛周辺、それから標茶の上の方ですね。2ヵ所ほど確認はしました。その他は良く分かりません。結構、3年に1回位は、“半作”くらいは獲れていたみたいです。あとは“くず米”だったという話ですけれど、ほとんどは食べるためというよりも趣味で作っていたと思います。どうしても内地から来た人は、お米を作りたかったようです。
戦争中、日本の農業出身の方で軍隊へ行った方は、インドネシアでもベトナムでもタイでも、田植えを行っていたという話が伝わっています。それは、農民兵が多かったということがありますが、たいていの上司は一生懸命に手伝っていたという話です。それが東南アジアへ行ったときの占領政策で、欧米の人に比べたら親しまれたという一因になっていたと言っていました。
お米の話に戻りますが、平成4〜5年頃に『米騒動』があったことを皆さんはご存じですか。スーパーに行ったら、お米が棚に並んでいなかったのです。男性は分からないと思いますけれど、女性には切実な問題でした。タイ米を食べさせられたという記憶はありますか。そのときです、凶作の年でした。
では、「江戸時代等の饑饉はどうか」ということで調べて見ると「饑饉の年の3〜4年近く、米の生産が滞っていた」というものがあります。そのことを調べて見ると、基本的な生産道具であるその当時の牛や馬を食べてしまったということです。“種もみ”まで食べてしまったということで、結局は今でいうトラクターや耕運機のようなものが一切なくなるものですから、それで生産力が落ちたということです。
同時にもう一つ、昔は藩閥制だったので、藩ごとに対応が違い、3年分くらい救済米として米を保管している藩がありました。そのような所は全く餓死者も出ず、大丈夫だったということで、次の年から普通に生産が出来たということです。藩によって随分違っていたのです。津留という言葉があります。藩と藩の入口の所に関所がありますけれど、その関所でお米を蓄えていなかった藩の人が棄民して逃げて来るのです。さっきの生産能力もそうですけれども、作る人までが他の藩に逃げるということで、なおさら生産が出来なかったということもあります。ある藩は、人が完全にいなくなってしまい、他の藩から移住してやっと生産にこぎ着けるというような時代もあったみたいです。同じ日本の中でも随分米の作り方が違っていたと思います。
「饑饉とは、天災といいながら、実は人災である」ということをよく聞きました。実際に米でも、石油でも、何でもそうですけれども、備蓄という形できっちり行っていることが国を守る上でも重要だと思います。少々長くなりましたけれどもありがとうございます。
矢澤 武彦 会員
日頃、目をかけて可愛がっている後輩なのに何てことをするのだ。矢澤でございます。何の話をすれば良いのか全然心づもりをしていなかったものです。いま、お米の話が出たので魚の話でも。
私は、大学を卒業してから、釧路で父親が経営していた魚関係の会社を継いで魚屋を行っていました。当時、私が父親に「東京でサラリーマンをやるのも良いけれども、北海道も良いぞ」と言って戻されたのが、丁度、釧路の水揚げがピークだった時代です。「日本で一番。釧路の水揚げが約100トンある」と言われ、その後100万トンになりました。その当時は、春夏秋冬、魚種は違いますけれども「釧路の市場に魚のない日がない」と言われるくらいでした。しかも、釧路の工場だけでは処理が出来ない。それを運送会社に頼み、どんどん北海道の各地へ輸送して加工してもらう。そんな時代でした。
一言で「魚屋」と言いますけれども、色々な種類の魚屋があります。皆さんが一番馴染みのあるところが「鮮魚」。例えば、キンキやタラ等の生の魚を扱うところ。これは、札幌や東京等の大都会に氷をかけて鮮魚で出荷して、鮮魚で食べてもらう。当時、釧路では、それ以上に沢山獲れたから、それを加工する。その加工も、缶詰にする方法、干し物にする方法、それから塩蔵と言って塩で固めてしまう方法。例えば、イカ等を獲り過ぎるとスルメにします。私が魚の仕事を始めたときには、この時代でしたけれども、冷凍の時代になりました。どんどん良い冷凍機が出来て、片っ端から冷凍をして固めてから原料として各地へ輸送した時代でした。
そんなこんなで、ずっと「魚屋は忙しいものだな。休む暇がない」と。当時は、釧路の市場は日曜日でも休みませんでした。どのような日に休めるかというと、台風が来たとき、海が時化たとき、船を出せなかったとき等は、止むなく休む訳です。止むなくというよりも計画性がない休みなのです。ですから、若い我々にとっては非常に不満でした。例えば、デートをしたいと思っても計画が立てられない等で不満タラタラでした。実名で言ってしましますけれど、当時、業界のトップだった金井俊一さんに「何とか若い者に休みをくれ、そうしないと若い者はこの業界に入って来なくなるぞ」と直談判へ行ったこともあります。金井さんに「お前たち若い者は何を言っているのだ、漁師は命がけで魚を捕っているのだ。お前たちが遊びたいからと言って休みをとる。何を考えているんだ」と叱られた記憶があります。
そんなこんなで、魚屋は忙しいと思っているうちに段々と『200海里』という国際規制がかかりました。それから船がどんどん減り、漁獲水系が減り、そうすると水揚げが当然減って来る。当時、釧路の大層を占めていた魚がスケソウダラと、季節によって違いますがサバ・サンマ・イワシ・イカ。その他にサケ・マスがあり、その他に地元沿岸の底引き漁のタラ・キンキ・カレイ等、色々な魚があって、全てそれを処理する業種が違いました。私は、どちらかというと流通育ちで、物を釧路から地方へ出す仕事を行っていました。加工はほとんど行っていませんでしたが、時代とともに「地元で加工をしなさい」という時代になって、私共も工場を持って自分たちで加工を行うようになりました。
その後は、皆さんご承知のとおり、釧路の水揚げがどんどん減り、船が減り、水産業者が減り、ということで、現在、衰退期を迎えていますけれども、まだまだ若い人が入って来て一生懸命頑張っているという事実もあります。
そのようなことを見ながら、私はもう魚屋を卒業しましたけれども、「何の仕事にも波があるものだな」ということと、「その時代その時代に合った生き方、やり方があるのだな」と思う今日このごろです。
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