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2014-2015釧路ロータリークラブ 第31回(通算3349回)例会


会長の時間

会長挨拶 田中 正己 会長
皆さん、こんにちは。昨日、武藤会員の奥様から訃報のお知らせがあり、私と黒田幹事とでお参りをしてまいりました。誠に残念でありますが、ここに謹んでご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 さて、立春も過ぎ、今日は2月19日。暦の上では雨水。陽気が良くなり雪や氷が溶けて水になり、雪が雨に変わるころと言われています。春とは名ばかり、まだまだ本格的な厳しい寒さが続いています。体調管理の難しい時期ですので、健康管理には十分注意してください。
 皆さん、ご存じのことと思いますが、2月はロータリーの暦の上では『世界理解月間』になっています。世界理解と平和週間は2月23日に始まる1週間のロータリー創立記念日です。1905年2月23日、この日に、ポール・ハリスなど4人がシカゴ中心街にあるユニティビル711号室のガスターバス・ロアの事務所で開いた会合がロータリーの始まりです。4人の会合から始まったロータリークラブが国際的組織に発展するストーリーは、難しい興味深いことと思います。
 創立記念日のある2月を、あえて世界理解月間に掛け合わせていわれから決められているのではないでしょうか。シカゴロータリーの発足も「公正な取引と仕事上の付き合いが友人関係に繋がる」というロータリー初期の理念も、多くの共感を得ることができました。1908年のサンフランシスコロータリークラブを皮切りに、アメリカ国内の他の都市へと広がり1910年には全米ロータリークラブ連合会(RIの前身)、以降、全米連合会が結成され、ポール・ハリスは世界中にロータリーが広がっていくことを予感し、それを望んでいましたが、シカゴロータリークラブの会員の多くは賛同しませんでした。
 しかし、ロータリーの拡大は国境を越え、カナダのマニトバ州に結成され、ウイニングロータリークラブが1912年に全米連合会に加盟したのを機に、年次大会において連合会の名称は、『国際ロータリークラブ連合会』と改められ、名実とともに国際組織となりました。その後、大西洋を渡り、ヨーロッパ、そして世界へと広がっていき、アジアでは最初にロータリークラブができたのは、1918年、フィリピン・マニラです。その後、東京ロータリークラブが承認されたのが1920年のことです。
 ロータリーの目的は、第4にある奉仕の理念に結ばれた職業人が世界的ネットワークを通じて、国際理解を親善、平和を推進すること。その目的を実現するための奉仕の第4部門である職業奉仕の主旨はロータリー創設の時から、ポール・ハリス構想にあったかもしれません。今月が世界理解月間であります。ぜひ、ロータリーの友、ガバナー月信を購読してはいかがでしょうか。よろしくお願いいたします。
 今日のプログラムは新入会員卓話リレーで新入会員4人の卓話を予定しています。4人の方もすっかりロータリーに慣れてロータリーライフを楽しんでいることと思います。楽しみにしています。会長の挨拶とします。ありがとうございます。


ご挨拶

梁瀬 之弘 会員
 先日、私の父の葬儀に際しまして、田中会長をはじめ多くの皆様にご弔問いただきました。また過分なご香料をいただきまして、さらには多くの皆様にお手伝いいただき、本当に心より感謝申し上げます。おかげさまで、滞りなく式を終わることができました。故人もさぞかし、皆さんに感謝していると思います。
 私の父は、若い頃に家族を全て亡くしていまして、色々な意味で人生の中の立ち位置が微妙なところにありました。そんなところもあって、ロータリークラブというものに関しては、非常に思い入れがあったし、心のよりどころにしておりました。
 そんな意味で55年間の後半は名誉会員として、大変栄誉な立場に立たせていただきました。55年という長きに亘りましてこのクラブにお世話になったことは、非常に喜んでいることと思います。絶対に感謝していると思います。
 いずれにしましても、本当に皆さんのお手伝いのおかげで、滞りなく進んだことをご報告させていただきます。本当にありがとうございました。


本日のプログラム 
新入会員卓話リレー

プログラム委員会 副委員長 澤井 育雄 会員
 プログラム委員会の澤井です。今日、中山委員長が所用で欠席ですので、大変、僭越ですが私が進行をさせていただきます。本日はプログラムに従いまして、新入会員4名の卓話をいただくことになっています。トップバッターは、平成26年7月31日ご入会の境出会員です。どうぞよろしくお願いします。


境出 雅仁 会員
NTTの境出です。新入会員卓話の前座を務めさせていただきたいと思います。何を話そうかと色々考えたのですが、弊社の黒金ビルの話をさせていただきたいと思います。ただ、内容は「幽霊出る」ではなくて、交換機がダウンサイジングしてきて、今はスカスカなっている、そういう話をさせていただこうと思っています。
 昔、電話が主流の時代にクロスバ交換機がありました。それの高さが275cmあり、幅・90、奥行きが60という機械がありした。うちの機械棟は、その柱の高さまで賄っていかないといけないので、スペース的には、この柱からその端まで。そこにその機械が30台です。
 釧路のお客様の1万5,000加入を収容していて、ケーブルで繋がって、ほぼびっしり詰まっていました。それが電子化されてどうなったかというと、180cmの高さに変わり、奥行き60cm、幅60cmに。簡単に言うと、冷蔵庫の大きさに変わってきたことになります。
 弊社のパラボラアンテナが立っているビルがD棟という表現をしています。北電さんとボウリング場の所にある建物がC棟と。それから防災庁舎の正面にあるのが、AB棟という表現をしています。                   
 その機械はC棟、D棟に今入っています。いま言ったように、ダウンサイジングした関係で、機械棟がスカスカになっています。結果的に、1ヶ所に寄せるといま言ったC棟に全ての設備がまとまるそうです。そうするとパラボラアンテナのあるD棟は不要ということになります。弊社のビルは、大変頑丈に作っていまして、設備を一緒に移設してもサービスを中断させるわけにはいかず、移すに移せない。やろうとしても1桁の億では済まないというもので、触ることできずに、今あのビルの中の何フロアかがスカスカで存在しています。もう一つ、機械が電子化されると遠隔で処理できるようになるので、平成3年には黒金ビルには500人弱の社員がいました。いま現在、グループを含めて、150人位の数です。そうすると300人と少しの人数が入っていたスペースが、そのまま今は空き家の状態になっています。
 最近、弊社も電話の減収が下げ止まらずに、光で収支をプラスにということで色々と営んできました。今は光も伸び悩み、電話の減収を抑えきれないという状況になっています。実は、弊社の営業収益は、電話や光通信の関係を中心に営業収支と言っていましたが、今年度からいま言った様に、スカスカになってきた機械棟と事務スペースで不動産事業を行うということで、不動産収入も営業収益に組み込むように変わってきました。
 話の落としどころは、釧路中央病院側の黒金ビルは当初、弊社の窓口があったところですが、あそこの1階フロアが丸々空いていて機械棟もスカスカです。サーバー等を自社で持つよりは弊社に置いた方がいい等と色々なことでぜひ、ご一考をお願いしたいです。
 もう一つは、たくさん空いているスペースを有効活用したいということもあり、倉庫でも、事務スペース、コンビニでもなんでも結構です。もし、そういった話があれば、ぜひお声かけをいただければ。黒金以外にも弊社のビルがあって、それも建て替えると半分くらいのスペースで済みますが、お金がかかり過ぎて出来ないのです。ただ、その周辺には空きスペースがあって、駐車場として貸したりしています。「ここ使えないかな」と話があれば、私にお話いただければ不動産事業も始めたということで、本社と掛け合って、うまく対応していきたいと思っています。
 交換機のダウンサイジングから、最後は不動産の売り込みということでお話しさせていただきました。どうも、ご清聴ありがとうございます。


プログラム委員会 副委員長 澤井 育雄 会員
ありがとうございました。次に平成26年9月4日のご入会の中島会員、お願いします。

中島 徳政 会員 こんにちは、中島です。ここに上がると、大変緊張します。9月に入りまして5カ月になりますが、この壇の上は4回目になります。最初の時は、新入会員として伝統と歴史のご挨拶をさせていただき、その次の週が歓迎会をしていただいて、そこでお話をしました。しばらく無いなと思っていたら、先日の節分例会で伊藤委員長からの「上がれ」ということで上がったら「何も言わずに恵方巻きを食べて」ということで一切何も喋らずに、そのときには楽に下がらせていただきました。
 今日は、卓話ということで喋れということですが、本日話す人の中で、唯一、私が釧路出身です。地元ということで、釧路の話題だろうと。お菓子の作り方喋っても、きっと何の反応もなく面白くない話で終わるでしょうから、もう一つ、ボランティア的にさせていただいている食品衛生協会の食の話をさせていただきたいと思います。
 食品衛生協会は、三原製麺の三原さんに会長をしていただきまして、当会には沢山の会員さんと役員さんがおります。副会長には五明さんと白幡さん。総務は登坂さん。厚生には浅川さん。歴々の皆さまがいらっしゃいます。今年度の総会は改選期です。私も、専務8年になりましたので、そろそろ代わらせていただきたいと思いますので、浅川さんよろしくお願いしたいと思います。その話は置いときまして。
 釧路管内で、食の営業を保健所に届け出を出している施設が4,700ほどの施設あります。そこには色々あって、こちらのホテルも入っていますし、コンビニも居酒屋も全て入っていることになります。その中で、釧路市内が約2,300軒です。その中で食品協会には1,200軒位の方々、市内で1,000軒位の皆さんに会員になっていただいています。その方々で「1年間、食中毒ゼロを目指して」ということで、今年で丸2年、この管内から『食中毒ゼロ』という実績を上げさせていただいています。そんな話を沢山しても困るでしょうから、お菓子の話にも少し触れておきます。
 その施設の中で92軒、お菓子の製造の許可をとっている所があります。その中には、ホテルのパン、コンビニでもパンを売られている所、お焼き・たい焼きの専門店も入っていますので、「お菓子」という名前で店舗張っている方は大体30軒はあります。
 お菓子屋さんというと、帯広からの某2軒は釧路市内に製造施設がないので、そのカウントの中には入っていないことになります。釧路で、製造所を持ってお菓子を作っている、パンで営業している、のが30軒です。私が所属している釧路菓子商組合には23店舗の会社が入られていまして、だんだん組織率が下がっています。
 釧路のお菓子の歴史は、なかなか古いのですが、100年を超えているお店が2軒あります。1軒目は南大通りの『カクセ成田餅菓子店』さんです。カクセ餅屋さんは正確ではないですが、4代目か5代目の方がいま現場で製造しています。もう1軒は北大通の『山木屋浦田菓子舗』さんです。1908年、明治40年ぐらいの創業ですから108年の創業年数になります。一時、社長のお子様・お嬢様が釧路を離れましたので「今の社長で終わり」というお話しもあったのですが、いま弟さんご夫婦がお帰りになられて跡を継ぐ準備を進めているようですので、さらに長く続いていくと思います。
 私の所は、39年目になりまして、昭和51年創業です。今はなくなりましたが、当時の『丸三宮地菓子舗』から、父が独立させていただいて行いました。宮地さんは、先ほどの浦田さんと昭和の時代、釧路のお菓子を分けていた両巨頭の片方でしたが、残念なことに閉店という形になってしまいました。
 JCの方々にはご存じの宮地こういちさんは、宮地さんの所から分かれた、『甘味処ミヤチ』さんのお父さんが宮地さんで、その息子さんが『マリアンマリー』として商売を行っていました。が、そちらも閉めてしまったということで、昭和の頃に、浦田さんの職人・宮地の職人だったお父さん達は段々人数が少なくなってきています。私の父も早く亡くなったのですが、父の世代が一番上で昭和10年前後のお菓子屋さんが上の方です。『二幸』さんの社長さん、『稲沢菓子店』さんの甘納豆屋などの皆さんはその世代です。その下が『壺屋』さん、『かわなべ』さんの時代で60歳前後の方。その下が私たちで、50代です。
 お菓子屋というのは、元々待ち受け商売というのが典型でした。「『なかじま』のお菓子を買いたい」と店を開けて入ってくれる方を待っているような商売でした。いつ、何が何本売れるか、分からないものを作ってショーケースに並べて待っている商売です。うちは私の時、丸井が入って来て、そこに初めてお菓子を出すことになって「これからは待ち受けだけではやっていけない」と思って、お土産菓子に変更していきました。お菓子屋は、元々は催事に合わせて桜餅やべこ餅、お団子を作って市民の皆さんに可愛がられるお菓子屋をやっていたのですが、今残っているお店は、お土産のお菓子にスライドしてお土産系のお菓子が半分以上の売り上げ構成を作りながら、また、釧路の皆さんに愛されるようなお菓子を作るろうと、皆さんが取り組んでいます。
 境出さんと同じように落としどころのない話になってきたのですが、「福司の地酒ケーキ」は美味しいと思います。私はつるしまさんという酒屋さんの社長とお願いに行ったときに梁瀬会長が「まじめに作れよ」と言っていただき、許可を得て作らせていただきましたので、大変、恩義に感じています。大切に育てていきたいと思います。「私の店のお菓子を買ってくれ」とは言いません。釧路で作っているお菓子をぜひ買ってください。いろいろなお土産、どこかに持って行くお土産、ご法事やお祝いなどでお菓子を使っていただければと思います。もしお店を知らなければ私がご紹介します。うちは、バースデーケーキなどは作っていませんので、安くはならないと思いますがどんな所でもお声かけをしたいと思います。
 ぜひ、釧路のお菓子をお願いしたいということで、この卓話を終わらせたいと思います。どうもありがとうございました。


プログラム委員会 副委員長 澤井 育雄 会員
次に今月5日のご入会の浅野会員、お願いします。

浅野 清貴 会員
こんにちは。釧路センチュリーキャッスルの浅野です。2月5日に入会させていただきまして、早速この場に立たせていただき、大先輩方を前に大変恐縮しています。
 少しだけ、お仕事のお話をさせていただきます。私、こう見えましても、ホテルマンです。ホテルマンと言いましても英語は話せません。20年程前になりますが、千歳の日航ホテルでフロントマンをしていた時に、外国人がフロントカウンターに来まして、「ワー」と話されたのですが、ほとんど聞き取れませんでした。唯一、聞き取れたのが「セブンイレブン」という単語だったのです。それで、私は地図を持ってきて、セブンイレブンの場所を案内したところ、大笑いされて「ノーノー、ルームナンバー・セブンイレブン」と言われて、その外国人の方とハイタッチをした記憶が鮮明に覚えています。
 ホテルといいますと、“おもてなし”という言葉がたびたび出てくると思います。一昨年ですが流行語にもなりました「お・も・て・な・し」という言葉を辞書で引きますと「客に対する扱いや待遇」と出てきます。おもてなしは平仮名のイメージが強いですが、漢字で書くとどのように書くか。おもてなしは漢字で「持て成す」と書きます。新人研修などでは「何を持って成すか」と質問をすると、以前に「荷物」という答えた新入社員もいました。本来であれば、その答えは求めていないですが、あながち間違っている訳ではありません。そこで、「荷物を持つ」と答えにさらに「なぜ荷物を持つのか」と問いますと、「お客様が疲れてわざわざお越しになったから」との答えで少しホットしますが、もし、これで「荷物を持てと教わったから」というような答えが返ってきたらガックリといったところですが、今のところは、そういうスタッフはおりません。
 疲れているからと思う、そしてわざわざお越しいただいたからと思い、荷物を持とうとする、その「思う」ことがおもてなしのそもそも始まりと私は考えています。おもてなしの心は発展していくことが大切です。発展性がなければ、おもてなしも始まっていきません。スタートは切ったとしても、大きなものになって行かないと思います。疲れているお客様を感じて荷物を持つのであれば、「他にしてあげられることはないか、お役にたてることはないか」と考えることで相手に対する思いが膨らんでいきます。思いを膨らませて、その中で喜んでいただけることや私たちにできることを見つけ出していくこと。これが「おもてなしの心」だと思います。
 思いをより強く持つと、どのような変化が起きるかといいますと、相手のことを深く・良く考えていこう、知ろうと努力していきます。これは、後に「気付き」に変わっていきます。気付きが増えると我々にとってはチャンスが増えていくことになります。思いというものは無形ではありますが、その無形の思いを形にするために、相手に伝わるように、思いを込めて表現することができたならどうなるか。その瞬間からそれは「作業」ではなくなるはずです。何を持って成すのかと、それは「思い」です。
 思いを持って事を成すということ、思いを形にすること。これがおもてなしの始まりで、それがお客様に伝わった時に、初めてお客様は、「持て成された」と思います。
 私もロータリーに入会させていただきまして、ロータリーアンの人を思いやる奉仕理念は、我々の思いに通じるものがあると深く感じました。私自身、この思いを高めていき、お客様に喜んでいただける、そして皆さまに喜んでいただけるようなホテルを作っていきたいと思います。以上でございます。


プログラム委員会 副委員長 澤井 育雄 会員
それでは最後になりますが、次に平成26年7月ご入会の西野会員、お願いします。


西野 和志 会員
 トップバッターの境出さんが建物の話をされましたので、我が放送局の建物の話をさせていただきます。去年、外壁工事をやりました。しばらく黒いネットが被っていて、年末に外したのですが、外壁の工事で一旦色を剥がしたので、変ったのはお気付きでしょうか。
 テレビ局なのでビジュアルにやらせていただきますが、以前は、“ウニ”や“夕焼け”などいろんな言い方されていたオレンジ色でしたが、現在はモンブランのようなツートンカラーに変りました。
 年明け、美術協会の方がご挨拶に来ていただいて、「色が変りました」と話をしたら、「意外に、変った印象がない」と言われました。実は、その感覚というのは非常に正解でした。最初に外壁工事の業者の方に「剥がします、色を塗り替えますか」と言われました。当初、提案があったのはグレーの色だったのです。「建築物の塗装を新しく変えたりする場合、オリジナルに戻すのが流行だ」と言われ、このオレンジ色に塗り替える前の最初に建築した時の色を提案されました。あの建物は、あそこに建って50年経っています。「50年物がグレーにそのまま戻すと、みすぼらしくてしょうがないので、それは勘弁してください」と言って、何の色が良いのかといろいろと考え、職員にもアンケートをとりましたが、希望が分かれました。女性職員やスタッフには割と茶色系が人気ありました。男性は、なぜか青っぽいのがいいという感じもあって、これはどうしようもないと思いました。あの色や以前の色も三代前の川澄局長が決められた色で、10年以上経っています。「馴染んだ色で行きましょう」と業者の方が決めて、市に施工許可を取りに行ったときに何を言われたかというと、「あの色は、平成21年に出来た市の景観条例に違反しているのはご存じですか」と言われました。もちろん、条例は、作ったあとに出来ていますが、色彩の範囲というのがありまして、色の明るさが決められているのです。これは暗い色から明るい色までAからZまでありますが、あの色は同じその色の中でもXぐらいで、かなり明るい色だったので「違反です」と言われました。その後から「塗り替えだったら良いですよ」「当初の色に戻すのだったら、そのままでも結構です」と言われましたが、いくら何でもNHK放送局の色が景観条例に違反したものではどうかということで、考えました。
 あの色を景観条例に合うように落とし込んでもらおうと、業者の方に考えていただいたら、あの色は番号で22番という色で景観条例に合うように落とし込んでもらいました。実は、以前のオレンジ色も濃淡の2色だったのですが、あまりに鮮やかで濃淡が分からなかったのですが、その部分を落とし込むと、こういう感じで2色に分かれました。ですから、美術協会の方が見たときに「あまり違わない」と言ったのは、実は正解で、同じ22番という色を景観条例に合うように落とし込んで行ったということです。
 塗り直す前に並べてみると、色は結構違いますが、明るさが違うだけで同じ色です。いろいろ苦労してやってみたのですが、結局、同じ色でやっています。
 その時に、外壁工事の予算が付いていなかったですが、看板の部分を調べてみるとコンクリートのボルト止めしている所が腐食していて外れかけていたのです。急遽、ボルトを付け替えて、補強してもらいましたが、例の札幌の事故ではないですが潮風に当たっている所は、ボルトなどは非常に弱くなっていると思いました。皆さん、ぜひ自社の看板なども、機会がありましたら、お調べになった方がいいかと思います。
 引き続き同じ色で、あの高台で放送していますので、親しまれる放送局として頑張っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。


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