釧路ロータリークラブ

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 2015-2016釧路ロータリークラブ 第43回(通算3409回)例会 

 

お客さま紹介 西村 智久 会長

 本日ご来訪いただいておりますお客さまをご紹介いたします。本日の講師であられます日本放送協会釧路放送局放送部副部長、皆さまお馴染みの久保田茂アナウンサーでございます。よろしくお願いいたします。

 会長の時間 
 

 皆さん、大変ご苦労様です。先週の土曜に『ロータリアンズ・マスターズ大会』というゴルフ大会が開催されました。アカデミー賞でいえば“主要5部門、完全制覇”という偉業を釧路クラブが達成いたしました。拍手をお願いいたします。(拍手)優勝が川本会員、準優勝が五明会員、第1位が青田会員、ブービー賞が樋口会員、ブービーメーカーが中村会員、という素晴らしい優秀な成績を収め、そのおかげで来年実施されるマスターズ大会に於きましては、主幹クラブが釧路クラブとなりました。来年の幹事の皆さまよろしくお願いいたします。

 いよいよ、明日から総勢11名でソウルの『国際大会』へ参加をして来ます。皆さんに募集をかけて国際大会へ参加をすることは、2003年・2004年度の『大阪国際大会』以来であります。毎回国際大会へ参加をしている小船井パストガバナー、清水パストガバナーは、久しぶりに国際大会で釧路クラブの会員と会えるのかなと思っております。是非、楽しい国際大会にしていきたいと考えております。

残すところあと1ヶ月少々となりました。最後まで頑張らせていただきます。よろしくお願いします。

 また、先日、パスト会長会がございまして、そこでパスト会長の皆さま方の大いなる賛同を得まして、「台北中央ロータリークラブとの姉妹ロータリークラブになる」という申込書のような書類を先日、次年度の方で送付いたしましたので、皆さまにご報告いたします。

 以上、本日の会長挨拶とさせていただきます。本日もよろしくお願いいたします。

 本日のプログラム 

「北海道中ひざくりげ」

 プログラム委員会 委員長 境出 雅仁 会員

 こんにちは。プログラム委員の境出でございます。本日は、NHKの久保田茂アナウンサーにお越しいただき『北海道中ひざくりげ』という番組に出演したときの旅人の話をしていただきます。

 久保田さんの紹介ですが、出身は岩手県宮古市でお生まれになり、年齢は西野局長と同じということです。何年生まれかは秘密にしておきます。実は約30年前に釧路放送局に勤務していたことがありました。そのときの局長に「何かを話せ」と言われて、プログラムを行ったそうです。その終了後、当時の局長から「話の具体性がない」とお叱りを受けたらしく「そのことがトラウマになっている」というお話で、実は、いま大変緊張をされています。今年の3月に釧路放送局へ戻って来られました。

残すところ1ヶ月で、プログラム委員としてプログラムを用意することが本日で最後になります。このタイミングで久保田さんをお招きし、是非素晴らしい声で番組の話をいただければとお願いをした次第です。それでは、久保田さん、準備はよろしいでしょうか。では、よろしくお願いいたします。

 

 

 

日本放送協会釧路放送局 放送部 副部長 久保田 茂 アナウンサー

 皆さん、こんにちは。本日は、貴重な時間を与えていただきましてありがとうございます。確かにトラウマになっていました30年前は。30年前に出席されていたという方はいらっしゃいませんでしょうか。大丈夫ですね。少しそれでほっとしました。

 自己紹介からしますと、入局が昭和57年(1982年)ですから、アナウンサーになって今年で34年目になります。西野局長とは、「歳が同じだ」という話が先ほどありましたけれども、実は初任地も一緒で私が1年先輩です。私がアナウンサーとして入って1年経ってから新人の記者として入って来ました。まさか釧路でこのような立場で一緒にまた勤務をするとは思いませんでした。後輩がいきなり上司ということですからね。まぁ、サラリーマンとはこのようなものかなと思いますけれども。初任地が室蘭で、2局目が釧路でした。そのあと、神戸・札幌・東京・仙台・札幌・室蘭・札幌・帯広・釧路ということで、延べ11局目となります。そうですよ、大変ですよね。いまも単身赴任中です。

仕事の中心は、スポーツ中継をずっと行っていまして、初任地の室蘭時代からです。最初はスポーツの放送をやろうとは全く考えてなくて、当時、室蘭局のすぐ上の先輩が全くスポーツに興味がない人だったものでしたから、お鉢が回って来てやるハメになってしまったことがスタートでした。初めて担当したのが中学生のアイスホッケー大会のラジオ中継でした。アイスホッケーは全然観たことがなく、勿論ルールも知らなかったので、先輩について室蘭から苫小牧まで車で毎日のように通って、特訓を受けました。10月から準備を始めて、12月に本番でしたけれども、本番の放送は惨たんたるものでした。笛が鳴る度に「ホイッスルですね」と言うと、解説者が「いまのはオフサイドです」と。ほとんど解説者が喋っているという酷い中継でした。そこで、野球も含めてですけれどもスポーツの面白さに目覚めて、その後スポーツを軸に仕事をするという道が出来たのではないかと思います。

 
 

2局目の釧路では、アイスホッケーの十條の元監督の矢口さんやアイスホッケー連盟のかたなど、アイスホッケーの一流の人に色々教えていただきまして、益々興味を持つようになりました。釧路時代に初めて甲子園の実況にも呼ばれて、スポーツアナウンサーとしての方向性を固めて、次の神戸へプロ野球のアナウンサーを目指して転勤することになりました。NHKのスポーツアナウンサーには軸になるプロスポーツが3つありまして、プロ野球・大相撲・サッカーのJリーグ、この3つのどれかに所属して得意分野を持って、それからウィンタースポーツに興味があればそちらに派生する人もいます。或いは、年に一回、国体でしか行わないような競技を2・3担当として持つということになり、更に極めればオリンピック放送というところまでいきますけれど。私の場合、とりあえずはプロ野球の中継を目指して神戸放送局に着任をしました。

実際に神戸へ移ってから、これはまた転機があるのですけれども、大阪放送局に石橋省三さんという大相撲のベテランのアナウンサーがいました。石橋さんに「君の声は大相撲に合っている」とおだてられ、プロ野球を1試合か2試合を担当しましたけれども、すぐに大相撲へ引っ張られ、それから20年、大相撲の放送を行うことになりました。大相撲の放送を始めたのが平成2年の夏場所でした。このころはどのような状況だったかと言うと、「若貴」の若乃花・貴乃花の兄弟と曙が十両にいた頃で、大相撲人気がグッと盛り上がって来た頃でした。ファンの長蛇の列が毎日出来るという状況で、テレビの視聴率も確か30%近くまで上がり、気分的に大変でしたけれども良い緊張感の中で放送が出来たという良い経験をさせていただきました。そのような訳で、スポーツやって行こうと決めた釧路は非常に大事な場所だった訳です。最初の釧路時代は、昭和60年(1985年)から平成元年(1989年)の夏までいました。20代で、本当に何も分からない頃で、色々嫌な思い出も沢山ありますけれどもその1つがこの場です。当時の中沢さんという局長に言われて、僕は若者向けのFMのディスクジョッキー番組をやっていたものですから、「テーマは、最近の若者気質について喋ってくれ」と言われ一生懸命、汗をダクダク流して30分間喋りましたが、何を喋ったか正直覚えていません。途中で会場がざわめいて来て「何を言っているコイツは」みたいな感じで、後で局長に相当叱られました。先ほど紹介をしていただいたように「ちょっと背伸びをしすぎじゃないか。君の話には具体性がない。もっと自分の目線で感じたことを素直に喋れば良いのに、背伸びをして喋るものだから全然説得力がない」と言われました。そのときに「説得力がある話し方とは、どのような話し方なのだろう」と、具体性のある話を考える機会となり、それが凄く印象に残っていまして、仕事の上での指針のひとつになったのではないかと、いま考えると思っています。

本日は、『ひざくりげ』の話ですけれども、私が最初に担当をしたのは、昭和63年(1988年)12月1日です。釧路にいた時代ですけれども、白糠町が舞台の『のぼれシシャモよ 月夜の川に 〜白糠町〜』というタイトルでした。白糠の茶路川と庶路川に時期が来るとししゃもが上って来ます。それをロケしに行こうという番組でした。が、昭和6312月1日、肝心のししゃもが全然昇って来なくて。当時は、札幌のベテランの藤谷アナウンサーがメインの旅人としていまして、藤谷さんが月1回出演します。放送は毎週ありましたので、残りの3回はローカル局の若手アナウンサーが埋める形で始まった番組でした。

そもそも人見知りの性格でしたから、正直にいうと『旅人』は凄く苦痛でした。一番ネックになることは、インタビューのテクニックでした。なかなか相手の話を上手く引き出すことが出来ない。なぜ失敗をするかというと、対象になる方と話のやり取りをする訳ですけれども、次に自分が何を質問しようかが気になってしまい、相手の話を全然聞いていない。新人のアナウンサーとはそのようなものですよ。それがなかなか上手くいかない。インタビューのテクニックは、このような旅番組の中では凄く大きなポイントになります。ベテランのアナウンサーになると、決められた流れはありますがその流れから離れても、対象者から面白い話がふっと出て来たら、そこに突っ込んでいき、多少横道に逸れてもその面白い話を引き出していく。そういうテクニックがベテランになるとありますが、当時の私にはそれがなくて、惨たんたる結果になってしまいました。かなりVTRは回るので、最後は編集の妙で何とかなるものですが、編集の方にこれも散々怒られあまり、思い出したくない初回の番組でした。いまではVTRも残っているか分かりませんが、思い出の番組となりました。

それからしばらく間が空いてから、平成21年に長沼町でロケをした番組が本当に久しぶりに当たりました。これは実際に僕が担当をするはずではありませんでした。『土は生きている』では、長沼町は「どぶろく特区」が有名になった町ですけれども、お酒を飲む場面が出て来るのです。担当をしていた若手の吉岡君というアナウンサーが下戸で、全くお酒が飲めない、一滴でも入ればぶっ倒れるくらいお酒に弱いアナウンサーでしたから「だったら誰にしようか」と。「お酒を一番美味しそうに飲んで口が回るアナウンサーが良いだろう」ということで、私に白羽の矢が立ち、この番組を担当することになりました。ですから20年以上経ってから、最初に失敗をした経験があるのでそれがトラウマになっていて、本当は嫌でしたけれども酒が入った瞬間に変わりました。6日間のロケでしたけれどもこのときは良い気持ちで仕事をすることが出来ました。

第1回目の『北海道中ひざくりげ』がいつだったかの話をしたいと思います。29年前、昭和62年(1987年)4月9日。ですから今年で29年目になり、来年30周年。『吹き荒れて・春 〜浜頓別町〜』という番組でした。これは「1枚の貝殻郵便から始まる」とありますけれども最初は、視聴者からのリクエストで「ここへ来て下さい」という要望に応えて旅人のアナウンサーが訪ねるというスタイルで始まった番組です。藤谷さんも86歳におなりになりますが、この方が初代の旅人で、非常に味のあるナレーションをされる方です。20数年経ってから改めてこの番組を観ましたけれども、この藤谷さんの語りがなかなか真似出来ないと思います。いまそのときの、僕が25周年の記念番組をやったときのVTRをこれからご覧いただきます。25周年記念で南こうせつさんをお招きして特集番組をやったときに、第1回目の放送を見ていただきました。そのときの様子をご覧下さい。

 

(VTR上映  『吹き荒れて・春 〜浜頓別町〜』の放送)

 

久保田アナウンサー 

北海道の農村と漁村がどう変わったか、まず漁村から見ていくことにします。記念すべきこれが第1回の放送ですけれどもオホーツク海側の浜頓別町へ行きました。

 

女性ナレーション

 北海道中ひざくりげ、第1回目は、オホーツク海側に面した浜頓別町を訪ねました。

 

男性ナレーション

 変わった郵便が届いたのです。ホタテの貝殻に書かれていますね。「浜頓別はもうすぐ海明けです。春を見に来て下さい」。浜頓別の小学校の女の子からです。

 

女性ナレーション

 訪ねたのは3月、まもなく流氷が去り、海が明ける時期を迎えていました。

男性ナレーション

 あれあれ、なにもないの。海は明けてしまったということ。

 

久保田アナウンサー(講演中、映像を見ながら説明)

 大きいリュックを持って歩くことがいまでも定番になっています。

 

女性ナレーション

 流氷が去った海岸で手紙をくれた鈴木さんに会いました。

 

久保田アナウンサー

 鈴木ちゃん流氷好き?

 

鈴木さん

 好きじゃありません。流氷が来ると、景色がなくなるような気がして

 

久保田アナウンサー

 鈴木さんはいまどうしていらっしゃいますか。

 

鈴木さんの母親

 旭川に。

 

久保田アナウンサー

 旭川にいらっしゃる。

 

久保田アナウンサー(講演中、映像を見ながら説明)

これね。25年経って訪ねました。

先ほど出て来た小学生の女の子は、結婚をされて、いま旭川に住んでいるのかな。

お嫁さんになって、でも長くやっているからこそ、見られる場面ですよね。

 

(VTR終了)

 

 このようなことで、第1回目の放送が流れてからの10周年・15周年・20周年の節目節目に特番をやっていましたけれども、たまたま25周年で私が担当をしたときに第1回目の舞台をお訪ねして、紹介をしました。残念ながら女の子に会うことは出来ませんでしたが、このように結婚の写真を見せていただくことが出来ました。

 当時、NHKのアナウンサーがこのように登場して、素の口調で喋るということが非常に珍しいことでした。僕も久しぶりに見て「藤谷さん、このように喋っていたのか」と大変驚きでした。段々下手になって来ている訳ではありませんが、いまの放送を見ていると、私も含めてナレーションチックと言うか、キチンと喋り過ぎていると。また、原点回帰で、これをたまに見て、もう少し自然の語り口に戻った第1回目のひざくりげに近いナレーションを次の機会があればそれに挑戦してみたいと思います。

 来年で30周年というまさにNHKからみるとキラーコンテンツではありますけれども、多分212市町村を当時やって、一通り廻っています。一通り廻った時点で「もう止めようか」という話もあったらしいですけれどもあまりにも人気があり過ぎて、いま三回り目、四回り目位になっているかも知れませんが、恐らく30周年経った後も続く番組になるのではないかと思います。僕は釧路にも1回お邪魔しましたけれども、皆さんも番組に関わっていただくチャンスもあるかも知れません。その節は是非ご協力いただきたいと思います。

 どのような形で番組が出来るかをここで説明したいと思います。これは遠軽町で行ったロケの風景ですが、スタッフ5人います。ディレクター・アナウンサー・カメラマン・音声マン・移動のときのドライバーの5人です。ロケの期間は大体6日間かけて行います。

この棒のようなものを持っているのが音声マンですけれども、インタビューのときにゲストの声を収録するのは勿論ですが、他の人が全然動いていない昼食中でも、1人だけふっと離れて音を録りにいくことがあります。鳥のさえずりや列車が通過する音、風の音などを録りにいくことがあります。これは番組で編集をするときに例えば朝のシーンでちょっと鳥のさえずりがほしいというときのために音を録ります。なぜ必要かというと、局に資料のCDもありますが、以前、それを使ったときに野鳥に詳しい人から「この土地には、この鳥がいるはずがない」や「ここに汽車の音が来るのはおかしい」など、もの凄く詳しい人がいます。だから「そこはもう嘘を付かずに、現場の音を大事にしよう」ということで、ひょっとしたら音声マンが、一番気が休まらないのかも知れません。四六時中、耳を済ませて、どのような音があり、どのような鳥がいるか、絶対嘘をつかないために音をしっかり録って帰る。これが音声マンの仕事です。

ディレクターは、スタッフの中で一番早く、放送の2ヶ月前に動き出します。色々とリサーチをして、どのようなテーマでこの番組を進行していこうか番組の設計図を作って提案を出すことがディレクターの役割です。

アナウンサーは、言ってみればディレクターの指示で動けば良いのですけれども、アナウンサーのセンスのよって番組の善し悪しが決まると、非常に厳しい仕事であります。よく先輩に言われることは「ディレクターの要望に100%答えることは当たり前だ。120%・130%答えないとダメだ。それくらいの働きをしなさい」とよく言われました。一番注意をすることは、先ほど僕が最初に失敗談を話したときにお話ししましたけれども、インタビューです。ゲストの方とどのような話を展開するか。如何にリラックスをして話をしてもらうか。そのためには如何に短い時間で仲良くなれるか、ということです。一応、お話しの筋立ては決めてゲストに対しますけれども、ゲストの方が途中でふっと予想外に面白いことを言う場合があります。それを捨てて規定通りの路線で聞いていくか。或いは、「これ面白いからちょっと横道に逸れてみようか」と、それはひとつの勇気です。その勇気を振り絞ってそちらの方を膨らませて行けたときに案外良い番組になったりします。その辺が、経験もあると思いますが、アナウンサーの腕の見せどころであり、一番難しいところだと思います。

ディレクター・アナウンサー・カメラマン・音声マンのチームワークによっておよそ6日間ロケの期間があり番組が出来ていると覚えていただければと思います。

難しいことは、物を食べるシーンです。必ずしも美味しいものばかりではありません。時々、大変な物もあります。番組を見ていると、美味しそうか、そうではないか、大体、分かりますよ。口数が多いと不味いですね。言葉を沢山使おうとするということは「どうこの味を表現すれば良いか、この不味いものをどう言葉にしょうか」と一生懸命考えて、言葉を沢山使います。そのような物は「ちょっとかな」と思う感じのことが多いですね。美味しいものは、文句なく表情で、或いは「旨い」という一言で良いのです。そのようなひとつの番組の見方もありますので、是非注目をして見ていただければと思います。

僕が担当をしたものは、結局32作品です。釧路管内でいうと、最初に白糠を担当しました。そのあと釧路市で1回担当しました。シニア達人に出て来ました。そして最近では、平成26年の阿寒湖畔で取材をした『誇りを持っていまに生きる 〜阿寒湖アイヌコタン』、アイヌコタンの話ですけれども合計32作品を担当しました。

結局、来年で30周年ですけれども、どれくらいになったかというと、北海道に7つの放送局がありますけれども、1局80回程度担当放送をしました。私の計算が正しければ合計562回となりました。市町村合併をする前は212市町村でしたので、二回りが終って、これから三回り目に入ると思いますけれども、本当に長寿番組。恐らくもっともっと続く番組になると思います。以前は、1時間番組だったこともあります。いまは、30分ですけれども色々手を代え、品を代え、演出を代えて、もうそこに生きている人そこで生活をしている人の魅力は変わりませんので、色々な形でその土地、土地とその魅力を紹介していきたいと思っています。是非見ていただきたいです。

いま、若者向け番組・穴場ハンターと2階建てになっているところがあり、少し見づらいと思う方もいるかも知れません。それはそれで、また若い人向けのティストで放送をしている穴場ハンターと、落ち着いて見られるひざくりげ、と2階建てになっていて、それぞれ違った風合いで見ることが出来ると思います。それぞれ「若い人の感覚はこうなのかな」「でもこっちの方が良いな」と思いながら見ることも良いかも知れませんけれども、これからも見ていただければと思います。来年、30周年でまた特番があって、過去30年を振り返るという番組もあると思います。是非その番組には私も関わってみたいと個人的には思っていますが、その節は是非ご覧いただければと思います。

そろそろ時間になってすみません。話が下手で、あとトラウマもあり非常に汗が出て来て、なにか30年前にいた方みたいな感じに見えたり、非常に焦っています。ひざくりげの話はこのような感じで。本当はスポーツが専門なので、そちらの話も出来れば良かったのですが、また機会があれば、よろしくお願いいたします。すみません。緊張しますね。やはり社長ばかりだから。

 

会長謝辞

 久保田茂(つとむ)様、紹介の中で(しげる様)と紹介をいたしましたが、久保田茂副部長様でございました。大変失礼いたしました。

汗を沢山かきながら今回は具体的で分かりやすいご紹介を本当にありがとうございました。

いま、番組で結構ウケてるものは、これが元になっているような形で、民放でもNHKでも、「地方へ行って色々なことを模索しながら」ということが大変ウケていて、制作費がかからない。テレビ東京で一番良いものが、確か売れない芸能人がバスで行く旅が世にウケてると聞いたことあります。やはり、ほのぼのとした感じが忙しい現代人の心の癒やしになっていると思います。

 久保田茂アナウンサーの声を聞いていると、どこかで会ったことがある感じがして。それはやはりNHKの相撲放送で観ていたから、ずっと前から知っているイメージが付いていたのでしょうね。これからもアナウンサーとして色々な意味でご活躍願いたいと思います。本日はありがとうございました。



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 お名前(敬称略)   内        容
五明 正吉 会員 ロータリアンマスターズゴルフ大会で準優勝しました。ありがとうございます。
青田 敏治 会員  ロータリアンマスターズゴルフ大会で1位になりました。
樋口 貴広 会員  ロータリアンマスターズブービー賞いただきました。
後藤 公貴 会員  ロータリアンマスターズドラコンいただきました。
 ロータリアンマスターズ
懇親会2次会一同
 ロータリアンマスターズお疲れ様でした。
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