2005〜2006年度 第14回(通算2902回) 例会報告
2005. 10. 06
会長 石田 博司   幹事 武石 光樹   広報・会報委員長  五明正吉
会長の時間

会長 石 田 博 司

今日はジョシュア君の歓迎会でありますので点鐘の後に歓迎会をさせて頂きますけれども、その際に会長の挨拶はございませんのでこの場は交換留学生歓迎についてのご挨拶とさせて頂きます。私の娘、31歳になるのですけれども、もう嫁いでおりますけれども娘も留学の経験がございました。高校の時に短期でオーストラリアとそれからアメリカ、どこだったかは分からないのですが4年間大学に通っておりました。何故彼女が英語を希望したのかと考えておりましたら、私共夫婦、外国語コンプレックスが非常にあったのだと思うのです。あの頃昭和50年代だったと思うのですけれども、幼児教育の英語教材というのがありました。確かソニーだったと思うのですけれども、遊びながら英語を学べるという機械を与えた、それが刷り込みになって中学、高校あたりに私は英語をしたいという様に言ったのかと私は思うのですけれども、外国語コンプレックスの両親だったのは事実なのですけれども、いざ彼女が高校生の時に将来語学を、英語をしたいと通訳をしてみたいといった時に、人間の価値観というのは変わるものだと思うのですけれども、娘よ、それは良いけれどもやはりまず母国語をきちんと学んでみたらどうかと、これは大まじめに言った事がありました。反対はしないけれどもこれほど日本が乱れるとは、昭和50年頃には思っていなかったのです。それが平成のあたり、昭和の末期あたりに随分、国語の乱れというのが気になった。これはやはり年を取ってきて己自身が保守化傾向に向かったせいもあるかと思うのですけれども、それで大まじめに日本語をきちんと話す大人であって欲しい、きちんと母国語を話せる人が外国語を話さなければ、おそらく外国語にも話す英語にも品格みたいなものは漂わない様な気がするから考え直してみたらどうかと言ったのですけれども考え直す様な子ではありませんで、無理矢理行ってしまいましたけれども、その様にして彼女は4年間、アメリカで学生生活を送って帰ってきて出来ている英語と言えば、彼女の名誉の為にもあれですけれども、多分買い物程度の英語ではないのかと私は思いますし、それからその母国語について大層な事を語った私も先日女房とテレビを見ておりましたら、クイズ形式の日本語の番組がありました。それの読み方、送り仮名、ふりがな等を見ておりましたら、恥ずかしくなる様なていたらくでありました。この様なものかと思っておりますけれども、この後乾杯になった時に1つの話の材料として頂ければと良いと思います。いずれにしましても、交換留学をする事で例えばジョシュア君なり紗葉璃さんが将来大きく大人になって、今でも十分大人でしょうけれども、国の中枢を担う様な場になった時に日本は良い所、アメリカは良いところという様に言って、それこそ国際親善の架け橋、礎となってもらう事が交換留学制度のおそらく眼目、ねらいだろうと思います。その意味で日本から外国に行く方、外国から日本に来られる諸君に大いに期待を申し上げたいと思います。ご挨拶とさせて頂きます。ありがとうございました。

会長の時間
1.釧路南RC 10/14(金) 移動例会「職場訪問」 釧路根室圏産業技術振興センター 12:30〜
会長の時間
交換留学生 ジョシュア君 歓迎会

国際青少年交換委員会  委員長  白崎 義章

 
皆さんこんばんは。国際青少年交換委員長の白崎でございます。本日この様にしてジョシュア君の歓迎会という事で主旨説明させて頂きたいと思いますけれども、実は皆さんご存じの通りジョシュア君が来て2ヶ月程経っております。送り出しとして、アウトバンドの学生として上原千佳さんという方が8月にミシガンの方に行っておりますし、その少し前に井上紗葉璃さんが釧路に帰られ、その様な中でジョシュア君がこの釧路の地に来ております。本来ですと早い時期にこの様な形で歓迎会という事が出来れば良かったのですけれども、色々とスケジュールが重なっている中で本日が歓迎会という事になっております。その様な事で様々な事業が2ヶ月程行われておりますので、その様な中を通して既に皆さん何回かはお会いしたという機会があったかと思います。その様な中ではございますがまずは歓迎会という事でございます。今日この後、2人の方から色々とお話しを頂きますが、井上紗葉璃さんの方からは帰国報告という事で、本当に貴重な体験を多数、アメリカの地でされてきたと思います。その辺の貴重な体験を色々とお話し頂いた事を我々に伝えてもらう事が、まずは我々にとってこの青少年交換事業をしているという意義に繋がってくると思います。その辺のところを皆さん是非受け止めながら聞いて頂ければと思います。そしてまたそのインバウンドとして来られておられます、ジョシュア君についてはほぼ2ヶ月経っておりますが、彼は語学が非常に得意だという事でもう既にこちらに来る前から、アメリカの地で日本語を幾分なりとも勉強して来た様でございます。そして2ヶ月経って、今日これから色々とお話しを頂きますけれども、それにつきましても何とか日本語でしたいという事でございます。是非その辺もその努力をしている彼の姿も受け止めて欲しいと思うところでございます。その様な中で我々の前段でお話しを頂いた後に歓迎会という事でお食事という事になりますが、是非色々なお話しを聞いた中を通して、その辺の事を皆さんでお話ししながら歓迎会という事にさせて頂ければと思いますので、どうぞよろしくお願い致したいと思います。以上でございます。

 

 

北陽高校  広瀬隆大 教頭

 
こんばんは。今日はこの様な席にお招き頂きましてありがとうございます。本来ならば校長がお伺いしてご挨拶を申し上げるところでございますけれども、多忙な為に変わりまして教頭の広瀬が参りました。大きい顔ですので、1度見ればお前の顔は忘れないとよく言われますが、今後ともご贔屓に1つよろしくお願い致します。交換留学の件ですが、私ももう50歳を過ぎておりまして英語と接するといいますか、外人さんと接するというのは思い起こせば本当に私が育った小さな街では、小学校1年生くらいの時ですがヘリコプターが飛んでくれば窓の外に飛び出して空を見て、先生に叩かれるという様な小さな街でしたので、外国語に触れるというのは本当に夢の様な世界でした。実際に小学校6年生の時に偶々街の中にあった教会に外人さんが来たというのでわざわざ仲間と見に行った事があります。その様な世界でした。それから年数を経て中学校に入り、英語というものを勉強する事になった際にローマ字と一体どこが違うのだろうかという疑問から始まり、やがてビートルズに出会う事になります。リアルタイムで本当にビートルズに狂った世代でありますけれども、ビートルズが私の英語の教科書でした。狂った様にビートルズを聴き、ギターをかき鳴らしてどんどん英語にはまっていったというのが実は私の英語歴です。そこでどの様な縁か英語の教師になってしまった訳ですけれども、教頭になって今授業はほとんどもっていないものですから、授業から離れるとどんどん英語が話せなくなって、今はもっぱら職員室の教頭席にふんぞり返って、偶にジョシュア君と会うのですが、つい口から出てくるのはグッドモーニングではなく、おはようと言う様ななんとも情けない話なのですが、偶々ジョシュア君にはドイツ語も非常に興味があり一生懸命しているという事で、私も第2外国語はドイツ語でしたので、ドイツ語で勝負したら良いだろうかという事で本棚をかき回してドイツ語の本を探しているところでございますので、その様な事で外国語にこの様に身近に接する事が出来る、何よりも今の子供達というのは校内に外国の方が来ても1つもおそれを持たないというのがすごいと思います。私が駆け出しの教員の頃に小さな街でスーパーに買い物に行った時に、バイクに乗った外人さんがドッとスーパーに来ました。店員が皆、僕の方を見るのです。私、逃げました。やはりまだ恐怖心はぬぐい去れない部分があるのです。しかし今の子供達は本当に生の英語をすぐ傍で聞く事が出来る、なんて幸せな奴らだと思うのですが、その様な事でロータリークラブの皆様には我々の我が侭を充分に聞いて頂いて、なおかつ微に入り細に入り色々ご支援を頂いているところです。常々感謝をしながらこのシステムを利用させて頂き、生徒の為になればという事で我々も精一杯頑張って参りますので、今後とも1つどうぞよろしくお願い致します。本日は本当にありがとうございました。

 

 

帰国報告  井上 紗葉璃


 こんばんは。去年8月24日に日本を出て、それから11ヶ月、アメリカのウィスコンシン州アンディゴというもの凄く小さな街に行って、11ヶ月後の7月24日に帰国しました。井上紗葉璃です。私が何故留学しようと思ったかと言いますと、英語を勉強したいからという訳ではありませんでした。ただこの様に日本に生まれて、私は日本という世界しか知らないまま過ごすのかと思うと、少し損の様な気がして、交換留学という機会を使って他の国に行って、他の国の文化を見てきたいというほんの些細な気持ちからでした。これからお見せする写真は私の留学生活のほんの一部にしか過ぎないのですが、写真を見て頂きながら私のアメリカ留学生活を少しでも知って頂きたいと思って話そうと思います。1枚目の写真を見てもらうと分かると思うのですが、人口は8591人という本当に小さなところでした。最初にこの数字を聞かされた時にはそんなにピンと来なかったのですが、行った瞬間に家と家との距離がもの凄く広くて、これは凄いところに来てしまったというのが最初の印象でした。もちろんこの小さい街ですから、日本語を話せる人というのは1人も居なくて、私が行った時には英語は全然分からなかったので、ここは本当に地球かと思うくらいの錯覚を起こしてしまいました。隣に写っている子がオーストラリアから私より半年遅く来ていた留学生なのですが、クレアと言います。この前に私よりも半年早く来ていたブラジル人のハファという女の子がいたのですが、彼女がかなり私に英語も文化も全部教えてくれました。その子が帰国した後にクレアがやってきて、クレアは本当に親友の様な関係になる事が出来ました。これは私が1回目と3回目になったホストファミリーの家です。この1回目と3回目というのは、私は1年間で2つのホストファミリーと出会いました。どうして3回目がここかと言いますと、1回目にここの家に行って2回目にセカンドホストファミリーに行って、その後また1回目のホストファミリーに帰ってという形になったからです。この家は家族がたくさんいて、その賑やかさのお陰で私がホームシックにならなくて済んだのではないかという様に思っております。これは私が、これは私も最初に思いました、少し身体が大きくて、最初、向かって右側に写っている2人が私を迎えに来たのですけれども、やはり見た瞬間に私も1年後この様になって帰るのかと思ったら少し怖くなってしまいましたが、この様に最初にこの様な体型を見て、なっても仕方ないかという心構えが出来た様な気がします。話は戻るのですがこの写真は私が帰国する直前に写したもので、本当は家族全員が写っている写真をと探したのですがそれは見あたらなくて、兄弟がなんと7人も居て全部女の子なのですけれども、そのうちの5人は私と一緒に暮らしていたのです。その様な事なのでこの写真しか無かったのですが、この写真に写っているのは右から双子のお姉さんの方で23歳になるベッカという人なのです。2番目に写っているのがホストファミリーのお母さんです。ジーンと言います。一番左側に写っているのが双子の妹のエリザベスです。この後ろに飾ってある犬の絵なのですがこれは私が学校の美術の時間に描いたものなのですが、この犬を描いた理由というのがホストファザーからこの犬は16年生きたのだと聞かされて、人間の年に例えると100歳とかその位なのだという様に聞いて、凄いと思ったのです。そしてお父さんがでもこの犬はもう長くないのではないかという話をした時に、私がこの家族に残してあげられるものは何なのかと言ったら絵を描く事だったのです。それでこの犬の写真を使って見ながら絵を描いて、この家族に渡しました。帰国寸前にこの犬は亡くなってしまったのですが、丁度絵が飾ってある下の部分にいつもその犬が寝ていたという事で、お母さんがここに貼って良いかしらという事になって飾ってくれました。その様な思い出のある1枚の写真です。これは2番目のホストファミリーの家です。ここはお兄ちゃんが1人、弟1人、娘さん1人、そしてお父さん、お母さんというごくごく一般の家庭だったのですが、お父さんが小学校の校長先生、お母さんがこの町では無いのですけれども40分位離れたところの大学にある講師をしている方でした。その様に2人とも働いていたものですから学校から帰ると必ず家に1人でいる事になって、困った、寝ている訳にもいかないしという事で、少しでもお母さんの手伝いをしようと思って、一応茶碗を洗って、部屋を片づけてお母さんを待っているという状態が毎日続いていました。これがその家族の写真なのですが、一番右上に写っているのがお兄ちゃん、その下に写っているのが弟で、そしてお父さん、お母さん、左下に写っているのがお姉ちゃんです。私と同じ年です。お兄ちゃんはボストンの大学に行っていて、お姉ちゃんの方はニューヨークの大学に行っていました。私は毎回ニューヨークに行ってみたいと言っていたので、お母さんがお姉ちゃんの通っている大学のあるニューヨークに行こうかという事になって行きました。その帰りにお兄ちゃんの大学があるボストンにも行こうという事になって、ニューヨークとボストンに行く事になりました。これはニューヨークの写真です。やはり話に聞いていた通り、ニューヨークは本当に建物が凄く大きく、後はもう人、人、人で、私はニューヨークに行ったけれど、でもアンティゴという小さな街は私には合っていたと思いました。ニューヨークは旅行に行くなら凄く良いところだと思うのですけれども、住むとなると毎日が凄く忙しい環境で、そして空気も悪い感じでした。でも楽しい事は楽しかったです。これはニューヨークのとあるレストランのハンバーガーですが、お兄ちゃんが持っているのがハンバーガーです。このハンバーガーの大きさも凄く大きく、何故か知らないのですけれどもハンバーガーを頼むと必ず皿に乗っているポテトの量がもれなく付いてくるのです。きっとこれを全部食べると太ってしまうのではないかと思って一応ポテトは食べなかったり、ハンバーガーは半分にしておこうとその様な事を考えながら食べる毎日でした。ニューヨークに行ったのですがそのホストファミリーのお母さんが凄く勉強が大好きな人で、ニューヨークにある博物館や美術館というところにたくさん連れてもらいました。結局時間が無くなってお母さんに最後の日にあなた一番何が見たいと聞かれ、自由の女神が見たいという話をして、行けるか行けないかという状態だったのですけれども、お母さんが無理矢理時間を作って行ってくれたのですが、テロの対策なのでしょうか今はニューヨークの自由の女神には、そこまで近づけなくなっているらしいのです。近づく方法としては船に乗って時間を掛けて見に行くという状態なのですが、やはり時間を押して見に来たので船に乗る時間は無かったので、私は泣く泣く米粒くらいの自由の女神を見て、しょうがないのでお店に売っている自由の女神を写して帰って来るという状態になってしまいました。話はアンティゴに戻ります。これは私が住んでいた家の写真なのですけれども、だいたい最初のホストファミリーはこの辺に家があって、ここが私の散歩道でした。この辺にダウンタウンという街があります。ですからダウンタウンに向かっていつも歩いていくという様な散歩コースでした。これはそのダウンタウンに行く途中にあるレイクパークというのですけれども、春採湖の様に人が歩ける様になっている公園です。これは私が最初にアメリカに来た時に見た看板なのですけれども、この意味は車は15kmで走って下さいという意味なのですけれども、やはり乗っているこちらも15kmというのは少し遅いみたいで、最初は慣れませんでした。これはアメリカの学校です。アンティゴハイスクールです。これは友達が変な服を着ているところなのですけれども、別にこの様な服を着て学校に登校してきた訳でも無く歴史の授業で劇をしたりして、本当に実際何年か前はこの様な服を着ていたのではないかと予想して、その服を運んできては着て劇をしたりという、凄く生徒が勉強したいと思う様な授業を凄くたくさんの数を繰り返ししてくれ、アメリカと日本の生徒の意欲というのが凄く違うと感じました。アメリカでの学生の様子を見ていると日本ではあり得ないのではないかという程の意欲で、例えば日本というのは私も小学校の時からそうだったのですが、席に座って静かに話を聞いている事が良い授業態度だという事になっている部分も少しあると思うのですけれども、アメリカではそれは通用しないみたいです。ただ椅子に座っていれば授業がどんどん進んでいくという状態では無く、疑問があったらその場で質問する、後は先生が止めに掛かる位のディスカッションが始まる、本当に授業はこの様にするのだと勉強というのはこの様に楽しみながらするのだという事を凄く感じました。これは私の友達の写真なのですけれども、来ている服は卒業の時に作ったクラスTシャツで、後ろの方に皆のサインが入っています。これは私の友達と写した写真なのですけれども、この向かって左側に写っている女の子は私が一番お世話になった子です。この子がいつも私に宿題とかテストとか色々教えてくれ、私が何とか卒業出来る様に一生懸命頑張ってくれ、でも簡単に答えは教えてくれないという為になる友達でした。これは学校の行事なのですけれども、ダンスパーティーのプロムという男性が女性を誘ってダンスパーティーに行くというアメリカならではの行事でした。ダンスパーティーは夜に開かれるので夕食は友達の家で食べても良いし、レストランで食べても良い、私は友達の家に行ってパーティーがあったのでそこで夕食を食べました。これがそのダンスパーティーの写真です。いつもこの様な親密なムードではなく、たまにはドレスがはだけてしまうのではないかというくらい激しいダンスも皆でしたりしてとても楽しかったです。これは卒業式の時の写真でこれは言い遅れてしまったのですが、この真ん中に写っている男性がジョン・イーベルという私のロータリーのカウンセラーだったのですが、この人はもう30年以上も交換留学生のカウンセラーをしていて何でも分かっていて、おまけに交換留学生と接する事が彼の幸せの様なところがあって、いつも私のおぼつかない英語を真剣に聞いてくれ、交換留学生の事を本当に子供だと思ってくれ、私達も父親だと思える様な本当に素晴らしい存在でした。卒業の話に戻りますが卒業式が終わった後の夜に皆でダンスをしたり、ボーリングをしたりしてパーティーをしました。これは先程紹介したジョンがいつも色々なところに連れて行ってくれたのですが、これはメリスンのキャピタルに連れて行ってくれた時なのですが、この様に毎回色々なランチに誘ってくれたりして、とにかく交換留学生を家にずっといる状態にはさせない、その様な人でした。これはロータリーのジョン・イーベルではないのですが、違うジョンとキースという人が冬にスノーモービルに乗せてくれた時の写真です。これはロータリーから月1回もらっていたお金なのですが、大体1万円くらいで団地代と電話代と後は自分で使うシャンプー、リンスとかその様な生活費をここからやりくりしていました。これは1ヶ月に1回くらいの機会にカンファレンスというのがあって、それは色々な国から来ている留学生同士が集まるものだったのですけれども、この様に同じ状況にいる者達だからこそお互いの事を言い合える、その様な関係を作れるのだと思って、本当にこのカンファレンスというのは重要でしたし、アメリカに留学したはずなのに他の国の事も分かってしまうとこのロータリーの交換留学の仕組みがまた凄いと思いました。これはそのオーストラリアからの留学生のクレアと写した1枚です。これは東京から来ていた女の子と写した写真で、この子も凄くいい子で、私達の中の約束は2人で話している時も英語で話そうと、日本語で話していると日本人だけの壁が出来てしまって他の国の人が寄って来にくくなる、だからお互いに英語で話そうという様に約束していました。これは交換留学生同士の旅行みたいなものなのですが、シカゴに行った時の夜景がきれいだったので写しました。これはシカゴにあるロータリーの凄い大きな建物なのですが、多分知っている方も居るかと思うのですが、その中に各国の旗がたくさんあるのです。そこでクレアと一緒に1枚記念に撮ってきました。これはシカゴのとある場所の面白いものなのですが、これは人の口のあたりでこの辺で子供達が水を浴びて遊んでいるのです。その水はどこから来るのかとずっと立って見ていたら、この様に口から水が出てくる様になって、5分か10分置きに必ず水が出てくる様になっていて、ここから水が出てくるのかと思いました。これはロータリーのカリフォルニアツアーで撮った1枚の写真です。アンティゴには海とかその様なものは無かったので、釧路はやはり海があるから、その様な部分で私は海が見たいと思っていたところで、この様に海を見る事が出来て感動して撮ったのですけれども、海に囲まれている北海道に住んでいた私は海がある事が当たり前だったのですが、アンティゴという海に接していない場所に行った時に海はこんなに私にとって大切だったのかという様に改めて感じました。これはグランドキャニオンに行った時の写真なのですが、これを見た時も自分が何か凄くちっぽけに感じてしまう程の雄大なところで、私は今まで人工、人が作ったものを見てきたのですが、人が作ったもの以上に自然が作り上げたものでこんなに大きなものがあるというのを間近に見て、自然は凄いと感じました。これは私のお気に入りの写真なのですけれども、私が帰国寸前に日本についてのプレゼンテーションを向こうでしたのですが、その時に最初は紙を用意してそれを見ながらという様に思っていたのですが、何故かその見ながらしてはいけないのではないかと思いまして、話している内にその紙を見る事が面倒くさくなってしまって、最終的に40分間、英語で話し続ける事が出来たという、私が生きてきた中で一番頑張った瞬間の写真です。次の写真はプレゼンテーションが終わった後に日本の旗とアメリカの旗を交換したのですけれども、その時の写真です。私は何故この写真を入れたのか分からないのですが、小さい子供でもこの様に大きいポップコーンを食べる事が出来るのだというのを皆に見て頂きたかったのですが、本当にこの子はこの後1人で、隣のお母さんもパンを持っていてこの男の子はそのパンも食べたしポップコーンも全部1人で食べていました。隣にいる熊も何かかわいそうかなという様に感じました。以上で写真は終わりです。この1年間11ヶ月なのですがこの様に留学というものを経験して1番思った事は、相手の事を知ろうとする時にまず自分の事を知っていなければ、相手の事は知れないのだという事。例えばアメリカの事を知りたくて行ったのならば、日本の事も勉強して行かなくてはならないなど、その様な事の重要性にも気付きました。それと英語はどうして日本にいた時に英語を楽しいと思えなかったかというと、英語を日本語で勉強していたというのが大きな理由だったのではないかという様に思いました。英語を英語で勉強するという事が、それは入試には使えないかも知れませんが、会話において英語は英語で勉強するという事がもの凄く重要な事なのだという様に感じました。この様な経験、まだまだ他にも色々な経験をしてきたのですがこの時間内に全部言うというのは無理ですので、本当にこれだけにしておきますが、この様な機会を私に与えてくれたロータリークラブに本当に感謝していて、これから私が大人になる時にこの留学というのはまだまだ終わっていないという様に思うのです。これから私がこの留学をどの様にして活かしていくかで、私が留学したという事の、留学したというのはその国に行っている時だけではないのだと思います。だからこれからこの留学を活かして自分の経験を活かしながら将来、行動範囲を広げていきたいと思っております。本当にロータリーには感謝しております。ありがとうございました。

 

 

ジョシュア ウエストファル君

 
こんばんは。アメリカには色々な地域があります。それぞれの地域はとても違います。ミシガン州はアメリカの中西部にあります。ミシガン州は北側と南側の2つの半島から出来ています。北側の半島と南側の半島は本州と北海道くらい違います。北側の半島の人口は少ないけれどとても綺麗です。ですから休みにはたくさんの人が訪問します。南側の半島は人口が多く、多くの工業が集まっています。この2つの半島を繋ぐ様にブリッジがあります。世界で一番長い吊り橋としてとても有名です。ミシガン州の大きさは北海道の2倍くらいです。人口も北海道の2倍くらいです。ミシガン州の人口はアメリカ50州の中で8番目に多いです。ミシガン州には2つのあだ名があります。その2つとはオブリン州とグレッグ州です。オブリン州というのは昔たくさんのオブリンが住んでいたからです。オブリンというのはイタチの仲間で日本ではくずりという名前で呼ばれている動物の事です。オブリンとは原住民にとってとても大切でした。でも今は昔程たくさんいません。グレッグ州と呼ばれるのはミシガン州が5大湖のうち4つの湖に面している為です。グレッグはアメリカで一番大きい淡水の湖です。ミシガンは大きい湖という意味のアメリカの先住民、「ミチガマ」からついた名前です。幾つかの言葉と文明がミシガン州に影響を与えています。最初にインディアンがミシガン州に住んでいました。その後でミシガン州はフランスによって支配されました。その為フランス語の地名がたくさん付いています。その後イギリスがフランスの土地を引き継ぎました。さらにその後、たくさんフィンランド人の移住民が北の半島の西側に来ました。そして街の大学を建てました。だからフィンランド語もよく知られています。ミシガン州はメキシコから遠いですが、スペイン語は第2の言葉の様に思います。僕の住んでいるミズランドのデパートの中では英語とスペイン語の看板を見る事が出来ます。ミシガン州の主要な工業は鉄の鉱石と銅と車とテクノロジーです。自動車の街として世界中に知られています。中でもGMとフォードは主要な車の会社です。ミシガン州から何人かの有名な人が出ています。例えばマドンナはベイシティの出身です。ベイシティは僕の家から車で30分くらいのところです。僕の街の名前はミズランドです。人口は4万人くらいです。とても綺麗で安全なところとして知られています。これは僕の高校です。これは高校の校章です。約1000名の生徒がおります。アメリカの高校では生徒が授業を選びます。そして生徒は選んだ授業が行われる教室に移動します。先生はいつも同じ教室にいます。授業の時にクラスの友達がいない事もありますが、昼ご飯の時や放課後に会えます。アメリカにも部活がありますが、それ程大切ではありません。幾つかの部活に入っている人もいます。スポーツのクラブは人気があります。ほとんどの部活は2ヶ月に2回か4回しか集まりません。僕はスペイン語クラブとドイツ語クラブに入っていました。1年間ボランティアのグループにも入っていました。高校のバンドでトロンボーンを演奏した事もありました。でもアメリカでは部活ではありません。授業でした。これは友達です。これは卒業の後です。お父さんとお母さんです。高校の4年が終わると卒業式が行われます。生徒の皆は帽子とガウンを着ます。式の始まりの時、帽子に下がっている紐は左の部分にあります。式の終わりには紐が右側に来る様にします。これは大人になっていく事の象徴としての意味があります。卒業の後で僕は家族とレストランに行きました。これは写真です。僕は少しずつ日本に慣れつつあります。日本ではアメリカと同じものもありますが、びっくりする出来事もあります。例えば多くのアメリカ人は日本では家の中に入る時に靴を脱ぐ事を知っています。しかし学校に入る時もお店の試着室に入る時もトイレに入る時も靴を脱ぐ事には驚きました。他にびっくりした事は日本の車、大体黒か白です。アメリカでは色々な車が走っています。先生の話や教科書で理解出来ないところがあるので、学校はまだ難しいです。でもノートを取ったり、日本語の勉強をしています。今、生物が僕の一番好きな授業です。剣道部に入りました。とても楽しいです。生徒が皆で良く手伝ってくれます。とても面白い事も体験しました。例えばホストファミリーと温泉に行きました。凄く楽しかったです。アメリカには温泉がありませんから、ちょっとドキドキしました。でもアメリカに帰ったら温泉に入れないので、僕は寂しくなると思います。学校で湿原競歩大会をしました。40km歩いている間にたくさんの人とお話をしました。特に違う学年の人達、3年生と1年生と凄く僕の会話を手伝ってくれました。その日、たくさん新しい言葉を学びました。特に「疲れた」と「痛い」、日本に来てとても楽しいです。そしてたくさんの事を勉強しています。僕の事をお世話してくれる釧路の皆さんにも、もう1回お礼を言いたいと思います。どうもありがとうございます。

歓迎会風景

会長の時間
10月20日 職業奉仕月間及び米山理解月間にちなんで
会長の時間 会長の時間
本日合計 本年度累計
22,000円 490,000円
日時 会員数 出席率