2004〜2005年度 第29回(通算2869回) 例会報告

2005.2.10


会長 久島 貞一・幹事 浅野  洋

広報・会報委員長 西村 智久




     久島 貞一 会長


 私事にはなりますが、先日行われました父の葬儀に際しましては、メンバー皆様にお世話になりました。お蔭様で滞りなく葬儀を執り行うことができました。ありがとうございました。
本日のお客様をご紹介致します。釧路地方の歴史を考える会、古谷達也さんです。後ほど釧路市の地名と釧路の歴史という事でお話しを頂きます。大変楽しみにしております。よろしくお願い致します。










 


1)釧路南RC   2/11(金) 休  会 「建国記念の日」
2)釧路ベイRC  2/15(火)インターアクト合同例会  釧路北高等学校  16:00〜


釧路市の地名と釧路の歴史」 
釧路地方の歴史を考える会 会長 古谷 達也氏 

            

古谷 達也氏

 
在職中も含めて現在も大変公私共にご支援を頂いている方々ばかりの且つ歴史のあるロータリーにお招きを頂きました。心から厚くお礼を申し上げます。私なりに特徴的な所をお話しさせて頂きたいと思います。
ご案内の通り、かつて税務署があり、測候所のあった地区が現在は駐車場になっております。その後駐車場になる前に当然の事ながら文化財の発掘、調査という事が行われました。その結果、今から2万年くらい前の遺物がたくさん出てきております。つまりこの釧路にはおおよそ2万年くらい前から人が住んでいたと、この様な事になります。それから連綿として人が住み続けて現在の私達が今生活をしている訳でございます。次はよく言われる縄文時代です。縄文人がどこから来たかという事はまだ定説がございません。私なりに本当につたない知識ではございますけれども色々な本を読んだり、人の話を聞いた結果、私は南の方から日本に渡ってきた人々が次第に北海道まで住むようになって、それが約1万年に亘って縄文土器を中心とした文化を形成したと、それがその後ご案内の通り中国、朝鮮から稲と鉄を持った民族がたくさんこの日本に渡って来ます。その人達がもたらしたのが弥生文化です。稲というのは1人や2人では出来ません。つまり稲を作るという農業を通じて人々が集落を作り、そのそれぞれの小さな集落が集まって部落が形成し、その一番の頂点に立ったのが大和朝廷の王、つまり卑弥呼と呼ばれる主権者です。この様な仕組みになるのではないかと思うのです。そして中央に位置した弥生人が自分達の文化を推し進めていく、つまり文化を推し進めていくというのは勢力範囲を広めるという事であります。そこでお米を作る技術と鉄を持った人々が東へ東へと侵攻を始めます。つまり東北を征伐し、蝦夷地を征伐しようという事で広がっていった結果がどうしても弥生文化、お米を作る生活になれないという人達が北海道に残りました。つまり日本列島全部に縄文時代の人達は住んでいたのに北九州にお米が入ってきて、大和を目指して中央政権を立ててその勢力から押し出された人達が沖縄と北海道に残った、この様に言われております。皆さんご経験の通り沖縄に行かれると非常にアイヌの方と似た方がたくさんいらっしゃいます。骨高で彫りが深くて髭の濃い方を見かけますけれども、その様な事から言っても同じ民族、人種が日本人と一緒に住んでいて、結果として弥生文化の恩恵を受けるのを嫌った人達が北と南に分かれたとこの様に考えられます。そしてその縄文人の後裔、はっきり縄文人というのはアイヌ人だとこの様に言う学者がいますけれども、その辺はまだ定かではありませんが、縄文時代の後裔の人達がアイヌ人と呼ばれるようになりました。そしてアイヌ人としてアイヌ文化が成立するのはわずか今から700年前、鎌倉時代の事だと言われております。その後に住み着いたのがいわゆる本州から渡ってきた倭人であります。日本人であります。そこで当然の事ながら色々な軋轢と歴史を繰り返す訳です。
 この釧路もご多分に漏れず先住民族のアイヌの土地でありました。ですからその人達が住んでいた土地の名前というのは当然アイヌ語であります。釧路もそうであります。もともと釧路はクスリと呼ばれていました。なぜクスリになったかと言うと、クスリでは無いのだと、本当はクシュルという様に言っていたのが訛ってクスリになったのだという説が一番有力であります。なぜクシュルと呼んだかと言うと釧路から釧路川をさかのぼって根室に行く、つまり標茶、虹別を通って右へ折れると根室国、まっすぐに行くと網走国、それから茶路川を入り口として足寄を抜けて十勝へ行くという様に、釧路が交通の要所であったという事からクシュルというのは訳して越える道という様に訳します。それが訛って釧路になったのだと言われております。その事が今釧路に港があり、空港があり、道路があり、つまり東
北海道の交通の拠点となったというのは、その様な先人の歴史と土地の開き方があって初めてこの様になったという様に考えてもよいのではないかと思うのです。例えば啄木が釧路に来たのが明治41年と言われております。明治40年に釧路から函館まで鉄道が全通します。啄木が来た明治41年の釧路川の幅はどのくらいでしたかご存じでしょうか。今の幣舞橋のほぼ倍、203mの木橋が架かっていたという記録があります。それ程の大河であった訳です。その大河だからこそ大きな船が河口に泊まって、そこから小さな船に荷物を乗せ換えたり乗り換えたりしてどこに辿り着いたかと言うと知人の浜であります。米町といわれている地区の下の海岸がその地点でした。そしてそこのその様な地形の上に立って釧路の東港が出来上がります。当時の交通の一番メインはご案内の通り船でありました。ですから港を持つ釧路というのは先住民族の頃から人間の住む場所としては非常に優れた場所であったという事が言えると思います。そしてやがてアイヌが開いていたクスリ場所、アイヌはどこで生活してかと言うとほとんどが高台でありました。つまり人に攻められなくて、食べ物があって、着るものが取れる所、食べ物は何かと言うと魚介類であります。高い所に住むというのは敵から攻められない為であります。身の安全を考えて高い所に住んで、浜へ降りて魚を捕って、冬になるとどうしたかと言うと熊や鹿を捕って生活をしていていました。先程も言いました様に農業というのは大多数の集団ではないと成り立たない構造をしております。しかし狩猟というのは大勢の人が行って熊と捕るとか鹿を捕るという事はあり得ない訳でございまして、むしろ少数の方が獲物を捕りやすい訳です。北海道釧路に住む人達の資質というか気質というか、性格の1つが地形に倣って成立をし、十勝と違った文化と物の考え方は私は先住民族の生き方が連綿として今の人達の中に遺伝子として残っているのではないかという様に思われてなりません。つまりそれは生活する手段から生まれた気質であり体質であり、物の考え方であるという様に考えてもよいのではないかと思っております。1つ例を挙げますと私はアイヌの人達が高台に住んでいたと言いましたが、ご案内の通り釧路発祥の地は米町だと言われております。そこもけして低い土地ではありません。高い所であります。そこには知人という地名があります。それはシリエトという様にアイヌ語で言いまして、土の鼻、土地が突き出て鼻のように出ている所という意味があります。知床もそうです。つまりその様なところに集落を作っていた訳です。その様な街が集まってやがて明治2年に戊辰戦争に勝った明治政府が北海道に開拓使をおいて、初めての長官が佐賀藩士の鍋島直正という方が初めての長官になりました。実は佐賀藩のお殿様がなぜ長官になったのかという事はすごく歴史的に興味のある事なのですが、いずれにせよ開拓使がおかれて一番最初にしたのは何かと言うと、蝦夷地を北海道という名前に決めた事と北海道を11の国に分けて統治をするという事を決めました。しかし明治政府はお金がありませんから実際上は藩体制が残っていましたから、明治2年ですから、諸藩に北海道を分割して統治するように命令をします。そこで佐賀藩が支配を決めたのが釧路と厚岸と弟子屈、川上郡、この3郡の支配を請け負う訳です。しかし明治4年になると廃藩置県になり、佐賀藩はなくなりました。ですからほんの僅かの間ですけれども佐賀藩の支配は3年で終わるのですが、人というのは恐ろしいもので最初に佐賀藩の命令によって釧路の支配の任についた人達がやがて釧路に住み着いて釧路の財閥というかリーダーを形成します。それは全て佐賀の人であります。その様な事をみましても一遍の歴史の中にやはり連綿とその時行われた文化、時代というものが必ず引き継がれて今に至るという事を物語っているのではないかという様に思っております。
 その釧路がやがて釧路村となり
釧路町となって発展をしていきます。釧路町という町制になったのは明治33年頃なのですが、その時もう既に人口が1万5千人くらいになっていました。一番の繁華街であったのは南大通、つまりその時はまだ南大通という前に真砂町という地名がいわゆる釧路の中心地でした。そしてその真砂町で商売をされた方々の多くが今も現存されてご商売をされているという方々がたくさんおられます。なぜ南大通になったのかという事になるのですが、それは釧路で初めて幅22mの大きな道路が開通します。そこで誰言うと無く南大通という地名になりました。地名というのは一般的に考えるとお役所が付けたり偉い人が付けたりという様にお考えになる方がいらっしゃるのですが、地名は9割9分ほとんど無名の庶民の方が付けます。例を挙げますと幸町はなぜ幸町になったのか、当時幸いクラブという町内会があったのです。その町内会の人達が俺達の町内会のある場所だからと幸町にしようとこの様な事であります。黒金町はご案内の通り今のプラザさいわい、福祉会館の所に浜釧路の駅がありまして、そこが鉄道の中心地であった事から黒金町になりました。それも役所が決めた訳ではありません。誰言うと無くそうなったのです。錦町は率直に言いますけれども釧路はまだ当時出稼ぎの場、つまり内地から釧路へ乗り込んできて一旗揚げて故郷へ帰ろうという商人の人達が一番たくさん住んでいた所が錦町で故郷に錦を飾りたいという意味を含めて錦町となりました。この様な具合にして地名というのはそこに住んでいる人達が自ずから共通の理解を持った呼び方が地名として定着、この様なものであります。という事はそこに住んでいた人達の生活、文化、生活の在り方が地名に反映されます。ですから地名というのはいたずらにいじってしまって新しくすると歴史に対する、私は冒涜だと、あるいは文化の破壊だという様に、識者の方がいうのには無理のないところだという様に思っております。この様な例を挙げて恐縮ですけれども、ついこの間まで東知床市が出来るかも知れないといっていた訳でございますが、やはり羅臼という、それから標津という、中標津という連綿としてアイヌ時代から伝わってきた地名をそこで消すというのは本当に耐え難い事ではないかと思います。
 いずれにしてもその様にして釧路には米町が出来、南大通が出来、そしてやがて駅が現在位置に移ります。昭和11年の
釧路市郷土史考にはこう書いてあります。釧路駅が新しい場所に移って北大通が出来る様になりました。今は繁華街が逆転をしました。いまや南大通は衰退の道を辿っております。しかしやがて釧路港、つまり東港が出来上がったらそれを起点として港が大いに栄えて再び南大通が繁華街になるに違いないという表現が残っています。今の北大通と同じ運命が南大通にあったという事です。これは歴史ですから歴史の必然というか人の動きというのはやむを得ないのかも分かりませんけれども、その様に記されております。その北大通もなぜ北大通かというと南大通に対抗して北にあるから北大通、しかも南大通を越える程の道幅を超える程の繁華街が形成されるに従ってその様に呼ばれる様になる訳でございます。この様な歴史を辿っていきます。やがて釧路町になって旗行列をしておらが街も一級の街になったといってそれから僅か10年程たった大正9年に釧路区というのが誕生します。これは何かというと、町と市の中間の行政区域であります。町から一変に市になる町もありますけれども、北海道の場合は急速にその様にはいきませんので、その町がやや大きくなって商業と工業が栄えて、都市施設が充実して、市街地が形成する所を選んで、国がそこに区制を敷くのです。そしてその当時もう旭川と室蘭が区になっていました。そこで釧路の町長さんをはじめ、議員の皆さんが一生懸命、よし、釧路も早く区にしてもらおう、という陳情を起こします。ここで今の釧路町との合併に繋がっていく歴史的な事実が起こります。区制の条件というのは住民が決める訳でも町長さんが決める訳でも無く、国が決めます。ご案内の通り当時、日本政府は中央集権を旨とし、且つ資本主義を大原則としていましたから、官僚制度が徹底しておりました。町長さん、釧路支庁長さん、釧路支庁というのは当時、昭和23年までは国が出先機関でしたから、凄い権限を要していました。その支庁長さんが居て、その上に北海道長官が居て、その上が内務省の内務大臣、この盾のレートがもの凄く太く顕然としてある訳です。ですから区制をするのにも内務省がOKを出さない限りは絶対に出来ません。その区制にする条件というのが何かというと、区というのは先程言いました様に都市施設が整っていて一定の市街地が形成されている事、谷地とか山中、つまり不便な郊外の部落は区域にいれてはいけないという決まりです。そこで釧路町は隣村の釧路村を分村する訳です。あなた達がいたら区制になれないから切らしてもらうという話になります。絶対条件がその様な土地をくっつけて区の中に入れる事はまかり成らないという定めであります。そこで色々な事が起こります。釧路村に住んでいる人達が分村されたら独立してやっていけない、とても村の経営を出来ないと条件を出します。先見の明はあったと思うのですが、今の阿寒太と言いますと新釧路町一帯の事を言います。つまり阿寒川はそこへ流れて、そこで釧路川に合流していました。今の旭トンネル、地下のトンネルを通って釧路町に行く道がありますけれども、そこに大工道具か何かを販売するお店があります。そこが阿寒川の落ち口だったのです。あの辺を阿寒太と言いました。それから今大発展をしている雪裡太、せめて分村するのならその区域だけでも良いからくっつけて分けてくれと言いました。それを釧路の町の議会は拒否しました。2番目の条件、どうしても駄目ならばお金をくれと、つまり村をやっていく為の基本財産が欲しい、それで当時の市の財産を人口割りにして頂きたい、そうすると釧路村に住んでいる人達にはトータルをすると15万円のお金がはじき出されるからそれを頂きたい、そうしたら諦めて分村しますと、こうなりますがそれも拒否します。話し合いの結果、6万円で釧路村を分村したという歴史的な事実があります。それを運動し、その事を語り継いだ人達がつい今でもいらっしゃいます。ついこの間までいらっしゃいました。その様な事が人間の歴史の中に残念な事ですけれども、残っている訳でございます。今、大正9年のお話しをしている訳ですけれどもその様なご苦労があって、結局釧路村をはずした、米町を中心とした、駅を中心とした釧路の区と桂恋が1つになって、やがて大正11年に釧路市となります。そしてその釧路市となった時でも町とついた地名は僅か6個しかありませんでした。米町、幣舞町、浦見町、それから真砂町という様な具合で6カ所。その6個のまま昭和7年までくるのです。人口はもう3倍以上になっていましたから、いかにも不便になりました。そこで昭和7年というのは大正11年に市になってから10周年目なのです。それを記念して街区を一斉に整理します。そこで50の町が誕生します。今、釧路市の町名はいくつあるかと言いますと、例えば愛国を愛国、愛国西、愛国東という様に3つありますけれども、その愛国というのを1つという数え方をします。鳥取もその様になりますけれども、101あるのです。そのうちの50は昭和7年に出来上がるのです。つまり昭和7年というのは釧路市の町、地名にとっても非常に大きな出来事の年であったという事を是非ご認識しておいて頂きたいと思います。そして例えば浪花町はご案内の通り当時はまだ砂浜に面して魚の集散地で、なお且つ発展をするに違いない町だと、あるいはその様になって欲しいという事で大阪のにぎわいに縁を求めて浪花町と名前を付けた訳です。話は少し余談になりますけれども、当時の大阪というのは丁度東京よりも人口的にも面積的にも広く、大大阪と言われた時代がありました。その時の市長さんに關一(せきはじめ)さんという方が当たっていたそうですけれども、とにかく町の区画を整理し、地下鉄を作り、今の大阪の基礎を作ったという市長さんだそうですが、その方の凄く良い事を言っておられます。毎日新聞をお読みになった方は載っておりましたけれども、「町というのは広さとか戸数の数ではなく、そこに住む住民の福祉を満たすに足るだけの福祉施設が機能を発揮すればそれが大都市であり、それが市だ」という言い方をしております。私達が同じ事を言うと口幅ったいかも知れませんけれども、今の釧路市の施設設備等はまず充分に活かしきって、その活かしきった利益を市民の人達が共通して受けて、それを土台にしてさらに施設を大きくする、港も然りであります。空港も然りであります。その様なベースに立って町を作っていくという事が一番大事ではないかという様に思われてなりません。末広町といえば末広町も末広クラブという町内会の名前から来ているのです。栄町はご案内の通り、全国にいくつもありますけれども町の弥栄(いやさか)を願って付けた名前であります。
 その様な歴史を持ってい
釧路市でありますので、私も何か昔の名前を通じて温故知新ではありませんけれども、その様な思いを時々深くして皆さんに聞いて頂ければと思って、ちっぽけな会ですが作り上げた次第であります。どうか1つお互いに町に愛情を持って、共々後世の人達がこの様にしておいたら喜ぶだろうという様な視点を大事にして、繋いで語り継いでいきたいと思っております。ありがとうございました。

 

本日のソングリーダーは古川 浩会員です


 

      2月 17日  「郵政民営化」  
                       釧路中央郵便局長 村上 信雄氏      
    


田中 俊司 JCで例会講師をしました
久島 貞一 御礼

本日合計 本年度累計
119,000円 1,326,540円


日時 会員数 出席率
2月 3日 100名 61.5%