2004〜2005年度 第31回(通算2871回) 例会報告

2005.2.24


会長 久島 貞一・幹事 浅野  洋

広報・会報委員長 西村 智久





     久島 貞一 会長

ポール・ハリスと3名の人達が1905年の2月23日にロータリーを結成して丁度今年で100年を迎えるという事でグレン・エステス会長は国際ロータリー100周年、100年を祝おうという事で、「ロータリーを祝おう」というテーマを掲げました。私達も年度初めにロータリーの歴史を知ろう、ロータリーの歴史を知って古きを偲んでこれからのロータリー100年に備えようという様な目標をたてましてこれまでやって参りました。今日、100年と1日目に釧路ロータリークラブで100年を祝う会を催す事が出来て大変幸せに思っております。この後、矢澤情報委員長、そして清水先生の方から色々お話し頂きますけれども、その様な勉強を重ねながら後ほどまた楽しい会を催していきたいと思っておりますのでよろしくお願い致します。簡単ですけれども会長の挨拶に代えさせて頂きます。どうもありがとうございます。

 



 


1)釧路北RC   2/27(日) 100周年対外事業「ハードル」無料上映会 13:20〜15:10


ロータリー100周年を祝って」 

            

矢澤 武彦情報委員長

 
100年前の1905年2月23日、会長は翌日と言いましたけれども、時差がありますので多分、今日そのものだろうと思うのですけれども、ちょうどそのぴったりの日に釧路ロータリークラブでも100年をお祝いしようという事で年当初から久島会長の下、この100周年記念の会の準備を進めて参りました。本年グレン・エステスRI会長のRIテーマとしまして「ロータリーを祝おう」、このテーマの下、1年間進んで参りました。今月に入りましてシカゴを中心として世界中のロータリークラブ、今166ヶ国122万人の会員が居るそうです。4人から始まった種がこの100年経って122万人にふくれあがった。非常に驚くべき事だと思いますし、またその一員に我々が居るという事が非常に誇りに感ずるところでもあります。その様な訳で我々この100周年に釧路クラブとしても何か記念の事業をしたいという事で皆様から会費に上乗せした形で、皆様から1万円の浄財を頂いております。この1万円の浄財でどの様な事業をしたら良いのだろうかと色々皆さんで相談して今日まで来た訳ですけれども、記念に病院か何かにストレッチャーとか車椅子の寄付をしたらどうかなど、色々な意見が出たのですけれども、昨年末から大きな災害が相次ぎました。日本では新潟中越大地震、そして東南アジアで大きな地震、津波の災害がありました。こんなに大きな災害があってすぐに役立てるのは、困っている所にすぐ義捐金を差し上げるのが一番良い事ではないかという事もありまして、また当クラブで受け入れております風花さんがタイのご出身でタイも非常に大きな被害を受けたという事で新潟の地震とタイの災害地に半分ずつ寄付をさせて頂こうという様な事で、少し記念事業の主旨から外れるというご意見もあろうかと思いますけれども、その様に決めさせて頂きました。この場で1つご了解を頂きたいと思います。その様な事で我々のロータリークラブで留学生として受け入れております、アンドリュー君、そして風花さん、この度韓国の100周年記念で短期留学しました小船井詩さん、それから大山龍太君、そしてローテクス、我々のロータリークラブから過去に海外に留学した経験を持つ土田真美さん、この5人の方を今日ご招待しております。この5人の方にロータリー100年、100年にはこだわりません。日本についての印象、それからロータリークラブについての印象を少し短く語って頂きたいという様に思います。その後清水先生にロータリー100年のお話しをして頂いて、その後皆さんと一緒に楽しい懇親の輪を広げたいという様に考えております。短い時間ではありますけれども、ロータリー100年を皆様と一緒に祝えればと思っております。ご協力をよろしくお願い致します。


アンドリュー 風 花さん 大山 龍太君 小船井 詩さん 土田 真美さん
毎日日本語を勉強しています。でもなかなか上手になりません。日本語は本当に難しい、日本の文化は私にとってとても興味深いです。例えばお正月の初詣やおせち料理、節分の豆まき、温泉の露天風呂、この国の留学生活は私にとって大変貴重な体験です。 武修館高校では1年生の特別進学コースで勉強しています。学校はとても楽しいです。日本に来たばかりの8月は日本語が全然分かりませんでしたが、今は少し分かるようになりました。8月に見た盆踊りはとても綺麗でした。釧路の好きなところは静かなところと寒いところです。私は釧路が大好きです。今はタイに帰りたくないです。私は日本の大学に留学したいと思っています。その為には勉強をたくさん頑張りたいと思います。

釧路から1週間、韓国に行ったのですけれども、最初はやはりあちらでの生活に馴染めなくてホームシックなところもありましたけれども、帰る時にはすっかりあちらでの家に居たくて、逆ホームシックの様になってしまいました。今回韓国に行って、自分にとっても本当に大きな経験となって、ビジョンが広がったといいますか、あちらの文化にも触れる事が出来ました。

1年間アメリカに留学していたのはと違って、6日間というのはやはり気持ちが凄く楽で旅行気分の様なものがあって、そして夏に韓国から留学生が来ていた子達もまた韓国で再会する事が出来て、その時はやはり凄く嬉しくて、最初は余り皆と話せなかったのですけれども最後には何とか日本語とか韓国語とか英語を使ってたくさん話す事が出来て、本当に帰りたくなくなって皆で泣いたりして、本当にこの様な経験はロータリーでしか出来ないと凄く思いました。 ご無沙汰しております。2年前アメリカに留学させて頂きました。今は語学大学に通って英語とフランス語の勉強をしています。関西とか関東では留学生の数が多い分ローテックスの活動が盛んで、私も京都のローテックスに参加して一緒に留学生の世話係みたいな活動をしています。釧路でもこの様な組織が出来て大きくなれば良いと思っております。私は年に何回かしか釧路に帰って来られませんが、是非ローテックスの活動を大きくしたいと思っています。


清水 幸彦 PG


  「ロータリー100周年にあたって」

 ロータリーの100周年を祝うお話しを致します。まずロータリーがどの様にして生まれてきたのかという事は皆さんもうとっくにご存じかと思いますけれども、クリスマスになりますと教会では生誕劇をいうものをするのと同じように、私もこの話をしてみたいと思います。ロータリークラブが出来ましたのは1905年でございます。1905年というのはどの様な年であったか、これは日本にとっては非常に大変な年でございました。明治38年、日露戦争をしていた頃でございます。2月23日、シカゴでロータリーは生まれた訳でございます。4人の友達が集まってロータリークラブを創った訳でございます。その4人というのは実は宗教も職業も皆違っていた訳です。同じ職業だけの人が集まった訳ではない、同じ宗教が集まった訳でもない、皆違っていた訳です。その中で声を掛けたのがポール・ハリスという事は皆さん、耳にたこが出るくらいご存じな訳でございますが少し誤解されておる事がございまして、ポール・ハリスがシカゴロータリークラブの初代の会長では無いのです。3代目の会長なのです。それはどうしてなのか、ポール・ハリスというのはなかなか奥ゆかしいところもあった訳でございます。それではそのポール・ハリスというのは子供の時から神童であったわけではないのです。彼はウィスコンシン州の生まれですけれども、お父さん、お母さん、裕福な方なのですけれども、浪費癖があったという訳です。それでポール・ハリスは5歳くらいの時から父方のお祖父ちゃんの所に引き取られて暮らしているという生活をしていた訳です。お祖父ちゃんの所で育ったポール・ハリスはさぞ窮屈な思いをして生活をしたと考えるかも知れませんが、実はもう天真爛漫、のびのびと育ったのです。言うならば悪ガキでもあった訳です。ですから町の中で何か悪い事が起きるとまたあのポールの餓鬼がしたのではないかと、その様な事を言われるくらいだったという訳です。さてそのポール・ハリスはその様にして育っていった訳ですけれども、大学を出まして弁護士になったのです。しかしすぐに弁護士の開業をすれば良いものを回り道をしたと言いますか、5年間の放浪の旅をしている訳です。悠々とあちらこちら歩いてはホテルのボーイをしたり、肉体労働者をしたり、色々な事をして来た訳です。その様な苦労を積んだから良い人になったのかも知れないと思う訳です。あまり順調に育ちすぎた人よりもこの様な人が面白いかも知れないと私は思います。そのポールですけれども弁護士さんをシカゴという町で、アメリカで一番大きいのはニューヨークでございますけれども、2番目の都市というのはロサンゼルスかシカゴか、人口の多い所、グレートロサンゼルスと少し違って来る訳ですけれども、シカゴという町は風の強い町だという事でウインディーシティとも言われております。あるいは2番目の町という事でセカンドシティとも言われます。もう1つ、シカゴはI will やるのだというやる気のある町であったと。ですから荒っぽいところのある町でありますけれども、後々になってアル・カポネをはじめとするギャング何かも居た町ですけれども、その様なやる気のある町であったと。そこでロータリーが生まれた訳でございます。さて、1905年2月23日、4名で集まった。この公衆トイレというもの、シカゴの市役所の中に創ったのが社会奉仕の初めであったと。それからその次にこれは1908年、ある冬の寒い日に街角で売れ残っている新聞を抱えた少年が居たと。そしてその人をロータリアンが会場であるホテルに連れてきて新聞を全部買ってあげて、そしてある人は持ってきたマフラーを彼にあげたと、これが青少年奉仕というものの最初の事であったと言われています。さて、1番目のロータリークラブはシカゴでございますが、では2番目は何所であったか。これはニューヨークではなくてサンフランシスコなのです。そして3番目が何所であるかと言うと、これはご存じの通りサンフランシスコを挟んで向こう側のオークランドであったと、その様にして段々と広がっていった訳でございます。そして1910年になりますと、アメリカで16のロータリークラブに成長して参りました。そこで名前がナショナル・アソシエーション・オブ・ロータリークラブズと、ここでロータリークラブ連合というものが出来て、その時の初代会長と申しますか全世界的な組織の初代会長がポール・ハリスな訳でございます。この様な事でその次にロータリークラブが外国に渡ってというのがお隣の国ですけれども、ユニテックというカナダの町です。マニトワ州です。ユニテックでロータリークラブが初めて海外で出来た訳です。その後からは全部世界大会というものを、今年もシカゴで100年を祝う大会をする訳ですけれども、全部アメリカでしていましたけれども、1921年、初めて国際大会が海を渡りました。それをした場所がエジンバラでした。エジンバラというのはポール・ハリスの奥さんのジンさんの生まれ故郷です。それでここでもう1つ誤解があるのですけれども、ポール・ハリスはエジンバラの国際大会に行っていない訳です。この1921年、その時初めて国際奉仕部門という今で言う4つの奉仕部門の最後の物が出来た訳でございますけれども、その時ポール・ハリスはこれでやっとロータリークラブは本当に国際性を持った大人になったとこの様な事を言った訳でございます。それでポール・ハリスという方は余り国際大会にお出にならなかったという事を後で聞いたのですけれども、国際大会には必ずRI会長というのが居る訳です。まあ、RIという名前になったのは1922年の事で、ポール・ハリスが仮に国際大会に出たとすると、その時のRI会長というのはやはり陰が少し薄くなるかも知れないとその様な思いやりもあったかどうか、あったそうです。ですから努めてRI会長をたてて、自分は陰に居るという奥ゆかしさもあったと思うのです。
そのうちにロータリークラブの中で2つの主流、セッションが出来まして、1つはクラブの中だけで仲良くしていけばそれで良いのではないか、いやそうではない、公衆衛生の事を考える、社会奉仕の事を考える、世界社会奉仕を考えた方が良いと、この2つの対立があってなかなか難しかったそうでございます。その様な事を解決しましたのが1923年、セントルイスで行われました大会の時に23・34という決議案を社会奉仕について、これはロータリアン個人個人としてクラブに奉仕すると同時にやはり持てる力を若干社会の為にも世界の為にも尽くそうと、この様な事があった訳でございます。それが現在ずっと続いている訳でございます。その他に途中から今度は第5番目の奉仕部門として青少年への奉仕の道を造ろうとか、老人奉仕の道を造ろうとか、その様な話もあったのですけれども全部増やしていったらきりがないからという事でこの様になった訳でございます。
さて日本でございますけれども、アジアで第1番目にロータリークラブが出来たのは何所かと申しますと東京と言いたい訳ですけれどもそうではなくてマニラなのです。マニラは当時スペインとアメリカが戦争をしてアメリカが勝った訳です。当時スペインの影響が大きかったという事で、マニラロータリークラブのスポンサークラブはキューバのハバナロータリークラブなのです。それが1920年の10月20日、東京ロータリークラブが出来まして、皆様ご存じの米山梅吉さんという方が会長として始まった訳でございます。2年後に大阪クラブが生まれました。その後ずっと国際ロータリーの日本から出た会長というのはどの様な人が居たかと言いますと、東ヶ崎潔さんという方、これはジャパンタイムズの社長さんで実は日本という事になっていますが国籍はアメリカです。そして2番目になりましたのが向笠広次さんという方でこれは82〜83年の時の事で九州の精神科の医師でございます。電気ショック療法を発案した中の1人に入っているのがこの人でございます。1940年昭和15年、戦争になってきますと日本もロータリーから離脱せざるを得なくなりました。しかし戦後の1949年、昭和24年にまたこの様なロータリーが復活した訳でございます。
100年経った昨日、北海道新聞に大きく広告が出ました。先人が創ったロータリークラブ、これを盛り育てていかなければいけないと私は思う訳でございます。ロータリーが21世紀まで生き延びる事が出来るかどうか、その様な議論が起きた事もございました。確か89年、ベルリンの壁が崩れましてその後ずっとロシアにもロータリークラブが出来ました。先程世界で166の国にロータリーがある、1番最後に出来た国がアフガニスタンのカブールロータリークラブ、これは復活でございます。前にもあったのだそうでございます。早くバグダッドロータリークラブというものが出来るようになれば平和になってくるのではないかと思います。ロータリーがまさに21世紀まで生きてきております。しかしロータリーの前途はどうなるのか、これは1人ひとりの、私達1人ひとりのロータリアンの手の中にあり、心の中にある訳でございます。1つの流れに沿っていくとするならばロータリーを育てていくのは私達であり、皆様であります。ロータリーが、少しケネディ風な言い方をしますと、ロータリーが自分達に何をしてくれるのかを問うなかれと、君達がロータリークラブの為に何が出来るかを問いたまえ、その様な事でございます。それからキング牧師、あの方は凶弾に倒れましたけれども彼が演説を始める時はI have a dreams. 私には夢があるのだと、この様な夢があるのだと、白い人も黒い人も皆仲良く手を取り合ってしていく、その様な夢があるのだと。私もその事は同感だと思います。それからこれはポール・ハリスの言葉でございます。夢がなければ物事は始まらない、志がなければ物事は成就しない。ある時ポール・ハリスに誰かが訊ねたそうです。ロータリークラブ、今日この様に大きくなってきている事、この様になるという事をあなたは想像したのですかと。ポール・ハリスはいや、ここまでなるとは思わなかったと、正直なところそうは思わなかったと、この様な答えがあったそうでございます。ロータリーを良くする為にやはり考えなければいけません。しかしロータリアンは考えるべきであると同時に、考えるロータリアンは行動する人でなければいけません。考え考え何もしないよりは、やはり考え、それを行動に移すという事でございます。皆様方お1人お1人が、100人のロータリークラブの会員が1歩進む、そうするとこのクラブは100歩進む事になる訳です。皆さん方の努力に因ってと言いますか、ロータリークラブが発展する事を期待する訳でございます。






 

      3月 3日   「エゾシカ肉の食品学的見地からの優秀性と可能性」 
                     釧路短期大学生活科学科 助手 岡本 匡代 氏 
                       


久島 貞一 100周年おめでとう
羽生 武喜
浅野  洋
石田 博司
伊貝 正志
栗林 延次
関向  一

本日合計 本年度累計
40,000円 1,397,540円


日時 会員数 出席率
2月 17日 100名 56.0%