鳥取神社
宮 司
木下 正明 会員
ご紹介頂きました新人の木下です。11月に入りましてから4ヶ月ちょっとしか経たずにこの様な機会を与えて頂きまして本当にありがとうございます。私よりもっと詳しい方がいらっしゃるかと思うのですが、鳥取神社に勤めているという事でこの様な事を説明させて頂きたいと思っています。
まず鳥取地域の歴史という事でお手元に4枚の紙を渡しております。地図では無い方です。なるべくスライドを使って説明するのですが、移住の経緯については紙の方を見て下さい。
皆さんご存じと思いますが鳥取という地域は鳥取県から移住した方々が街を作りましたので鳥取とか鳥取大通と言う町名になっています。元々鳥取藩というところは江戸時代に池田家が藩主を務めてきました。0番の所から行きますが32万5千石のかなり大きな藩でした。藩の中でもかなり大きな藩で元々岡山藩の池田家だったのですが、嫡男が幼少の為に国替えになり鳥取県の藩主に変わりました。また、これは日本3大仇討ちというのが有り大化の改新の仇討ちと蘇我兄弟の仇討ちもう一つは渡辺数馬と荒木又衛門の伊賀越えの仇討ちというのが有り、この伊賀越えの仇討ちが行われた為に幕府の怒りを買い、国替えになったという説も有ります。鳥取池田藩は徳川家康の次女との間に生まれた忠雄(ただかつ)の家系であるという事で江戸から離れていて外様大名なのですが松平姓と葵の紋が下賜され親藩に準ずる家格が与えられていたという事で、大変幕府に近い家系です。それについては後で図の方で説明させて頂きます。
その様な大変幕府に近い大きな藩だったのですが、一番の所ですが明治維新の変革と鳥取県士族の困窮という事で江戸時代が終わり明治に入りますと、藩籍奉還とか廃藩置県となり武士は俸禄を各藩から貰っていて、公務員の様な物だったのですが、それが金禄公債証書というのに変わり、これは年金証書の様な物だったのですが、その様な事で俸禄が無くなり証書になってしまった。そこで西南戦争により日本が大変なインフレになり金禄公債証書が反故同然になってしまったのが一つと、武士としてのプライドがとても高い藩でしたので武芸一筋という事で武士を辞めた段階で経済的に農業とか商工業で自立する事が難しかった。また、元々鳥取県は平野部が大変狭く生産性の低い農地が殆どだったという事です。そして、皆さんご存じかと思うのですが、明治9年に一回鳥取県が廃止になってしまい島根県に併合されてしまい、県庁所在地が島根県の松江になってしまったので県の要職についていた方が皆さん失業してしまった。県の職員に武士がなったのですが皆さん失業してしまった。当時の新聞によると明治14年の調査で県下士族6,644戸中資産に余裕の有る物はたったの82戸で有ったと書いています。又、明治15年12月23日の大阪朝日新聞では今年の夏も鳥取県士族が多く餓死したと報道。又、県下全士族5,461戸の内貧乏で3食を欠く物が1,360戸も有り餓死する人が数多く出たとしています。かなりの士族が食べる物も無く、農作物も作る技術も無く武士としてのプライドが有るので中々そこまで踏み込めないので餓死する人が沢山出たということです。私もこちらに来て歴史を聞いて江戸から明治は豊かな時代だったのかと思っていまして、餓死する人が出たのは大変な事だったのだと感じました。
そこで行政の変化としては鳥取県を再置しようという運動が明治13年に起こり14年の9月に鳥取県が又復活しました。その時に皆が食べていく為には士族を帰農移住しなければいけないという事で初代の県令、県知事さんでしょうか山田信道さんが北海道移住を奨励して明治15年6月に内務省、大蔵省、農商務省に上申をしています。2番目の所ですがその結果、士族移住取り扱い規則というのが出来ました。政府が北海道は当時3県でして札幌県と函館県と根室県に別れていまして釧路は根室県の中に有りました。根室県で調査しましたら農業を持って移住を許可する国は根室国、釧路国、北見国とする。漁業を持って移住を許可する国は千島国とするという様な結果が出ました。その結果、鳥取県の方で移住する人は居ないかと募り、明治17年6月に根室県釧路郡鳥取村。この時には鳥取村という名前は付いていなかったのですが第1回目の北海道移住というのが実行されました。最初に出たのが41戸です。これが鳥取の地図で鳥取駅がここに有ります。鳥取空港がこちらに有りますが出航したのがこの辺の賀露の港という所ですが、ここから出航したそうです。それで移民団出航の地という碑が建っていまして、移住3代目市議会議員を20年以上された津坂義孝さん、今も鳥取に住まわれていますが揮毫しております。隣の碑には鰐淵さんの名前が入っています。それと西尾さんという当時の鳥取市長さんの名前が入っています。ここから出航して釧路に向かったという事です。途中で函館に一泊して7日間掛けて釧路の港に入港しています。出迎えは根室県の役人と鳥取村の惣代
張江豊吉さんとおっしゃるのか多分張江大策さんや悌冶さんのご先祖さんではないかと思うのですが、それと有志が出迎えに来た。それとアイヌの方が沢山荷物を運びに来てくれて「おんぷってやる」と言われて鳥取県の人が知らない言葉なのでびっくりした事が記録に残っています。それが明治17年の6月9日に上陸しまして、その後第2回が募集されました。それが2ページ目の上の64戸と書いてあるところでして、そちらは大楽毛に入植するはずだったのが第1回に入植した41戸の方々が、41戸では心細いので100戸位の集団になりたいと申しまして同じ鳥取村に入植する事になりました。これで武士が100戸、5戸が師範農と言いまして農業をやった事が無いので教えてくれる方々が一緒に入植しています。師範農の方々は前の年位に入られて様子を見て大丈夫そうだという事で武士の方が明治17年と18年に移住したという事になります。
次に、これが入植の地図なのですがこれが釧路川で、これが幣舞橋の有る所でここが釧路駅の場所です。ずっと行ってヨーカドーさんがあり、これは大曲でこれが鳥取神社です。昔の43番地が鳥取神社です。ここが1番組、2番組、3番組、4番組という事で、第1回の入植の41戸が10戸ずつ抽選をしてどこに入るかという事でずらっとここまで並んだのです。その後次の年に入った方が5番組、6番組、7番組でここから折り返して8番組、9番組、10番組です。今の国道と仁々志別川沿いに入植をしたという事です。5番組には当ロータリーの中村幸史さんのご先祖さんが入植しまして津坂義孝さんも5番組で鳥取大通り5丁目とか6丁目辺りですが、観光協会会長の佐藤悦夫さんは2番組の桂木さんの子孫になりますので士族の末裔の方がこの105戸の内半分位はまだ釧路に残られていて残りは開拓が厳しすぎてどこか別の土地を探してしまった。そういった方も多かった様です。
続きまして当時の住居なのですが、板張りのバラックでよくこれもマイナス30度になる中を生活出来たなと思うのですが、こちらは北大から貰って来た写真なのです。ここに家が3つ有り、200メートルから300メートルおきにこの様な作りの家を建てて住んでいた。お醤油やお酒も凍ったし朝起きたら少し前まではこうだったのでしょうが枕も凍っていた。この様な状態の家で頑張って開拓をしょうと住んでいました。それで入植の生活の様子ですが、士族移住取り扱い規則により食料、農具、日用品は2年間の期限付きで貸与され、家屋はこの様になっており、窓は紙だったという事で雨や雪が降ってくると塞がないと紙が溶けてしまうという事が別の本にも書いていました。
食べ物の主食はジャガイモ、いなきび、あずき、なまめ、かぼちゃ、とうもろこし等が主食で、芋を賽の目に切り米やいなきびを混ぜて芋飯を作っていたという事です。面白いのは一尺程度の鉄板に一寸釘で穴を開けておろし金作って芋を摺り下ろしてでん粉をとって芋団子にしていたということです。貯蔵性を考えて、とくに冬場食べ物が無くなるので厳しい中、知恵を使い冬に備えていたという事です。調味料は殆ど塩が主で醤油や味噌は造っていたそうです。買った物は盆と正月位に使える程度だという事です。
次に入植した年は凄く沢山作物が採れたそうです。元々開拓した事が無い土地ですので土地がとても肥沃でとても作物が採れたのですが、実際には阿寒川が毎年の様に氾濫しまして入植した年と次の年が非常に幸運で、たまたま食べ物が採れた。その後は氾濫で、水害ばかりで食べ物が採れない状態が続いてしまったという事で、その前の入植の様子のところに書いていますが2年間の期限付きで食料が貸与されたので、それを超えた時には何も無くなり作物も採れないと大変厳しい生活を強いられたのではないかと本にも出ています。日記を残している方がいましてそれにもその様に出ていました。私の意見なのですが屯田兵制度がこの後はじまり、士族移住の方で第8回までが移住したのですが、それ以降は屯田兵という事になりました。屯田兵は北方の警備なのでお給料が出たのではないかと思うのですが、士族移住法の時にはその様な物が無かったので屯田兵の方が大変生活が楽だったと聞いています。また、最初の士族移住法で移住した方は北方警備と聞いて移住したそうで、実際行ってみると農地開拓だけだったという事で日記等にも「騙されたのではないか」とお書きになっている方もいらっしゃいました。大変な所へ移住したと最初は考えたのではないでしょうか。この他に藩主の池田さんが視察に見えられてその時に釧路湿原を見てこれは米が採れると言ったらしいのですが、確かに上から見ると採れそうなのですが積算温度と言って温度の合計が低いので採れないのは住んでみると直ぐ判るのです。たまたま真夏に来て湿原を展望台の辺りから見たらしいのですが、その勘違いで釧路に移住する事になった。そのお陰で今釧路の鳥取地区、駅裏から向こうが有るので良い勘違いだったのかなと思っています。それとページの1番下ですが阿寒川がしょっちゅう氾濫を興します。その時の根室県の派出所主任の大久保親彦さんという方がこれではまずいという事で治水工事をする為の費用を県庁から取りましてそれと村民救済の為の治水工事を興しています。新釧路川も治水工事で造ったのですが、鳥取橋が掛かっている真っ直ぐな川がありますが、当時は治水工事で殆ど食べていたのではと言われています。農作物では食べていけないので治水工事で食べていた。
ここに鳥取村の年表という事で見にくくて恐縮なのですが書いております。明治17年6月9日に宿禰丸という三菱汽船の船に乗り入港しています。先程上陸の絵が有りました。次に明治19年の10月に公立第1、第2簡易教育所開所という事で鳥取小学校が開校しています。第2は北斗小学校と言って昭和40年位に無くなってしまった学校で北斗に有ったのですが、当時の明治政府も教育が1番大事という事で、まずはじめに学校を作っています。その後村役場が出来たという事です。4番目に士族移住者で報恩会というのが結成されました。明治23年2月5日ですが開拓が厳しいので士気がどんどん低下していくという事で祖先の恩に報いる会という事で報恩会が結成されました。他に矯士会と言って若い方が武芸の稽古をする会とかその様な同好会の様な物を作り皆で集まって武士魂を忘れない様にしようという事で、会を作り何とかしのごうという事でやっていまして、それが落ち着いた段階でこの報恩会というのが結成されました。ここに書いていますが旧藩主の恩に報い文武忠孝道を錬磨する為に結成された。へこたれそうになるのを皆で祖先、藩主を敬って団結していこうという事です。鳥取神社の中に報恩祀堂と言ってお堂が有るのですが、この中に歴代藩主の絵とか写真をこの中に納めまして毎月9日に村謡という開拓の苦労の踊りを奉納しています。毎年6月9日の上陸した日に報恩慰霊大祭というのを催行していまして、これが行っている図なのですが、末裔の方も人数が少なくなり、これが濱野幸男さんで、こちらは丹葉節郎さんで亡くなられ方です。これは平成5年の報恩会の設立100年の写真ですが、明治天皇様と各歴代藩主の遺影を置いて皆さんのお陰で今の鳥取がございますと、祭事を行っています。
又年表に進みますが、その後鳥取神社が24年の4月23日に宣伝になってしまうのですが、御創祀されました。これは村の中心に神社が必要だと昔の方は考えた様で、お祭りの日だけが昔は仕事を休める日だったのです。ですからお祭りを出来る神社を造ろうと言う事で報恩会の方が出雲大社に行きまして御分霊を頂いて来ました。これが出雲大社から御霊分けをして頂いたと言う旨の書状です。これが日本でも残っているのは大変少なくて出雲大社の管長さんも来られたのですが、これを見て珍しいと写真を撮られたり、出して見られたりしていました。
最初の神社の社殿はこの様な大きさでして私の身長よりちょっと高い位のお堂でした。それが今の日本製紙の中に建っていたのですが、今は6代目の昭和49年建立の神社になっています。外の鉄扉が開けたり閉めたりが大変なので今は無くなり、サッシになってしまったのですが、今の社殿が6代目の社殿になります。日本の1部上場企業の8割は神社を所有しているのですが日本製紙の中にも今は稲荷神社がありそこで年間20回から30回の御祭事をしています。それはたまたま私の神社が近くだという事と神社がどいて、日本製紙を建てたという経緯があるのでお伺いさせて頂いています。トヨタは豊起神社というのを持っていますし、出光興産は宗像大社を祀っていますし、三菱は土佐稲荷神社、三井は三廻神社という事で神社にお参りに行くのではなく敷地内に神社を建ててお祀りしています。神社を所有しています。意外と皆さん知られていないのですが上場企業の8割以上は所有しているのが現状です。
次に10番ですが根室本線の釧路駅が設置されました。今の場所です。そこで駅が設置されて鳥取の方はその後に11番の所ですが大正9年7月に冨士製紙が創業になりました。その時に冨士製紙が創業したお陰で鳥取地域は税金が只だったのです。家が無い方は全く税金が只で、家が有る方は固定資産税が有ったのだと思うのですが、その様な関係で今の共栄地域に住んで釧路側に仕事に通う方が増えたそうです。税金の無い所に住んで釧路市で稼ぐ。それで共に栄えるで、共栄地区になったそうです。それで見て頂くと面白いのは大正13年からで治水工事で新釧路川の建設で昭和11年まで掛かっています。この時の治水工事で治水町が出来たのです。急に建設の方の住まいが必要になったり人が集まってきたりお店が出たりしました。
その後、鳥取競馬第1回開催という事で昭和7年の事です。駒場町と言う町名が有るのですが、駒場町という町名はそこに競馬場つまり駒場が有ったからです。今も駒場町という名前が残っています。その後に愛国飛行場開場式という事でこれは今の愛国地区辺りに飛行場が有り、これは愛国郵便切手寄付金というので建てたので戦争とかとは関係なく愛国という名前が付きました。多分今の愛国という地名はこの愛国飛行場から取ったのではと思っています。その後、合併などが有り、本州製紙が来て続きます。この年表の中でその時代では無いのですが、これは郵便局、大正13年頃で設立は明治の時代ですが、その写真とか鳥取村役場これも新しく建築直した後のものです。後は今の国道38号線でこれは鳥取橋です。ですから羽生(はにゅう)さんのお宅はこの右の辺りに有るのではないでしょうか。先程お聞きしたら86年前からいらっしゃるというので、どこか見れば羽生とか羽生商店とか書いて有ると思います。この辺りは羽生さんのお宅なのだと思います。これは飛行場の写真で13年に出来ているという事です。この様な写真も後で説明しますが鳥取神社の横にお城が建っていましてその中に全部有りますのでもしよろしければ是非いらして頂ければと思います。
次に鳥取町と釧路市と対等合併という事で昭和24年に合併しました。その時の人口は釧路市が7万人以上鳥取町は1万3千人という事でこの人口差で合併をすると普通は吸収合併となるのですが対等で合併したという事で面積は47平方qから136平方qが足されて180平方q強になり大体4倍になりました。4倍になったお陰で工場とかの誘致が出来た。今は本州製紙や結果としてジャスコ等が有りますが、後は西港の開発など、これを見て頂くと面白いのですが、新富士や大楽毛は元々釧路市なのです。その上が鳥取村という事で空港の方まで続いています。合併の記念碑というのがビックハウスさんの横の三ッ輪商会さんの給油所の裏の公園に建っております。これは合併50周年というのが平成11年にあったのですが、その時に碑の前で御祭事を神社の方で報恩会と一緒に致しました。これは開基80年記念の神殿とお城の間に有る古い建物ですが、これは開拓記念館という事でその時に建てました。後は開拓記念碑という事で町村金五さんのその時の知事の揮毫になっています。色々な記念碑が建っているのですが80年にしんくみさんの前にここから先に移住しましたと碑を建てました。同じ様に士族移住地という事で、これは石破さんという元防衛庁長官のお父さんで鳥取県知事の方の揮毫が有ります。神社の中にも石破さんの揮毫の碑が一つ有るのですがこの間釧路に講演に来られた時に釧路にうちの親父の碑が有ると仰っていました。これが80年周年の時に建てられまして、100年の時に建て替えてしんくみさんの前にありますが立派になりました。駅裏の鉄北支店でしょうか、これは皆さんご存じないかと思うのですが、鳥取10号公園に『北を拓く』という記念碑が有りまして、これが大山(だいせん)なのですが、色々な小さな山とか峠を石碑の高さに表現してこの様な鳥取県の立体的な地図の様な物を作っているのです。こういうのが実際は有るのです。
次に開基100年の時はお城を建てました。鳥取の地域が出来たのは皆さんの開拓の苦労のお陰という事で毎日ここで御祭事をしております。百年館の様子ですが色々な移住した時の物が1500点位と池田家、徳川家、水戸家の家宝が50点程あります。重要文化財クラスのものが17点程あります。市内の小学生は4年生の時に殆ど全員見学に来ます。
次の写真は移住をした時に持って来た物です。鏡や皿鉢という大きなお皿なのですがこの様な武士の方ではないと持っていなかった物が有ります。これは絹糸で位が高い方が移住したのが良く分かります。これは裃です。百年館が出来る時に鳥取市から鎧を頂きまして、これは青漆という黒っぽい青っぽい漆で非常に大変貴重な物らしく、これを見る為に業者さんが来て売って下さいとしつこく言われたりもするのです。
池田家というのが面白いのですが、これが15代将軍の徳川慶喜なのですが水戸家から徳川家に養子に行ったのです。お兄さんが養子に行き池田家の藩主になったのです。という事で池田家には池田家と徳川家と水戸家の家宝が有ります。
それを全部神社の方で頂いてしましたが、本当は鳥取県立博物館に行く物が皆神社の方に有ります。慶喜の子供の頃の絵で色が入っているのは日本でこれ1枚しか有りません。大河ドラマとかでもこれが紹介されて色々の本が出ていますが、鳥取神社所蔵という事でこの絵が沢山出ています。神社に関係有るのはこちらの方ですが、腹違いなので同じ年の兄弟でした。これが池田さんの数え7歳、5歳位の書です。生花と書いていますがこれを見て書道を止めた方が結構いらっしゃいます。私の30年は何だったのかと。これは大人になってからの書です。お父さんの徳川斉昭さんという方は日本一の書家と言われていましてこれは隷書なのですが、これも非常に貴重な物でこれを見る為だけに神社に来られる方がいらっしゃいます。この様な書体で今も中国では公式文章が書かれているそうです。こちらは将軍さんのお筆で、次は国俊(くにとし)と言い、正宗に相当する徳川家の御用達の刀鍛冶なのですが槍はこの一振りしか使わなかったのでこれも珍しいという事です。後は伊賀越えの仇討ちの顛末書というのが何故うちの神社に有りこれが証拠書類なのですが、これを元にNHKのドラマとかも作っています。
次に鳥取には、この様な郷土芸能が伝承されていまして、ここに『時は流れて爺婆死んで雲雀鳴くのに穴掘って埋めた』と凄く辛そうな詞が続いていまして暗い踊りなのですがこれを報恩祀堂の前で毎月この様な格好をして踊るのです。
あとはきりん獅子舞というのが有り、これは平成8年に北海道文化財保護功労者表彰を受けまして、釧路では今まで2件しか受けていません。2件の内のもう1件が鈴木豊次郎と言い先々代の宮司で、天然記念物並びに無形文化財の保護という事で受けています。その後きりん獅子舞で鳥取神社関係で2つ頂いています。
これは傘踊りで鳥取県に5年に一度踊りに行ったり、鳥取地区の学校で指導されたりしていまして、保護者にアンケートを取りますとこの様な郷土芸能をしているという事でとても誇りに思っているという方が8割位になっています。とても良い事だと思っています。
そろそろ最後ですが人口の推移を調べてみました。旧鳥取町の部分と鳥取町を除く釧路市の人口の推移で、平成12年に逆転しました。鳥取の方が人口が多いのではと先週言って下さった方がいらっしゃって、よくよく調べたらやはり7年の時は釧路市側が多いのですが、12年の時は釧路市側が減り逆転した結果になっています。見てもらえば分かるのですが釧路側がが減っていまして、鳥取の方は緩やかですが少しずつ増えているという事でここで逆転になっています。
後は鳥取市との交流がとても盛んで鳥取県から大体年間300人位が百年館に見学に見えられます。こちらからも2年に一度くらいは何かと伺い、交流を深めていまして、最近は移住120年が平成16年に、平成15年に姉妹都市提携40年という事で行き向こうでも士族の開拓移住という事で、フォーラムをやまびこ館という歴史博物館でしたりしています。
これは神社の創祀百年の時に三笠宮さんに来て頂きまして、大御輿を復活させました。これは1回出しますと600万円程掛かるのですが、又6年後に出しますので皆さんご協力頂けたらと宣伝方々思っています。
最後になりますが、これは出雲大社の社殿なのです。こちら側から皆がお参りするのですが神様は横を向いているのです。これは中々皆さん知らないと思うのですが、直接向くと出雲大社の神様に凄く影響を受け過ぎるので横を向いている訳です。こちらは何時か詳しく説明させて頂きますが正面を向いていない神様も有るという事で珍しいと思って頂ければと思います。もう時間が過ぎてしまったと思いますが、以上で鳥取地域の説明を終わります。