アルファ イングリッシュアカデミー
代表 舟木 文雄氏
釧路ロータリークラブの皆さん、こんにちは。釧路市内の日赤病院裏でアルファイングリッシュアカデミーという英会話スクールをしている代表の舟木と申します。よろしくお願いを申し上げます。今日、皆様の前で何かスピーチをしてくれと弟の博から頼まれまして来た次第であります。お昼を食べて身体の血が胃の方に回っていった様なので、皆様の前で上手なお話しは出来ないと思いますけれども、今日は自分の5年間住んだアメリカの経験や、私が今まで25年間英会話スクールを経営してきた中での様々な体験や経験をお話し、日本と外国の文化の違いについて少し聞いて頂ければと思います。
1976年、約30年前ですが、私はアメリカのベニハナオブトウキョウという高級ステーキハウスの会社に採用されまして、ニューヨークに渡りました。皆様の中でベニハナオブトウキョウというレストランに行ってお食事をされた方もいるかと思いますけれども、日本人のロッキー青木という人が、その当時アメリカにベニハナオブトウキョウというレストランを開設しまして、一時とても人気が出たレストランです。その会社に採用されて私はニューヨークに来ました。私は小さい時からアメリカに行くのが自分の夢でした。小学校5年生の頃、私が生まれ育った釧路市内の浪花町、昔は『とんけし』と言ったのですけれども、その当時はまだ今のように釧路港という港の施設が無く、黒い砂浜と岩がむき出しで出ていまして、カニやホッケ、色々な魚が獲れて楽しく育った場所なのですけれども小学校5年生のある日、そこの砂浜に座って1人で海の地平線を眺めていましたら、地平線の向こうから来る船はだんだん大きくなって目に入ってきて、地平線の方に向かっていく船はだんだん自分の目から小さくなって消えていくと、その姿を見ていまして何かその地平線の向こうにどんな世界があるのだろうか、いつか是非その地平線を越えた世界を体験してみたいという夢が心に出来まして、いつかその希望を叶えたいという気持ちがその時に芽生えました。皆様もご存じの通り、私達の年代は戦後外国と言うとアメリカの影響が非常に強く、何か外国と言うともうイコールアメリカという考えしかありませんでしたので、私も基本的に外国はアメリカだと信じてきました。
その様なアメリカに行きたい気持ちがベニハナオブトウキョウという会社に採用されまして実現して、非常にわくわくしていました。会社でニューヨークの方に行く前にアメリカ大使館に行って、必要書類をもらって、そしてアメリカに行ってくれと言われまして、その当時アメリカ大使館に行きまして、必要書類をもらって、アメリカに出発した記憶があります。その当時はまだ羽田の飛行場でしたので、アメリカに行くのにすごくうれしさと緊張がありまして、出発前にトイレに入ったのですけれども、そのトイレに入った時にアメリカ大使館から渡された大事な書類をトイレの中に忘れてしまって、乗る前にあわてて戻って、幸いその書類がまだ残っていたのを記憶しております。
それでアメリカに渡りまして、まずアメリカの飛行場で入国係官にこっちに来なさいと言われまして特別な部屋に連れて行かれまして、そこで日本のアメリカ大使館から渡された書類を提出しなさい、提出されている間係員の方がタイプライターを書類を見ながらぱちぱち打っていまして、その書類が打ち終わった後、俗にいうグリーンカード、日本語で永住権というカードが私に渡されましてWelcome to America と、アメリカにようこそと言われまして入国しました。そのニューヨークに着いた後、会社が用意してくれたマンハッタンのホテルに行きまして、高級なホテルではなく安ホテルだったのですけれども、中に入ろうとしましたら入り口に大きな黒人の男が立ちはだかり、ホテルに出入りする人間を1人1人チェックしていたのです。私は予約してある事を伝え中に入りましたが、今度はホテルのフロントのカウンターに刑務所の様に檻が出来ているのです。その檻を挟んでホテルのカウンターの人と私がやりとりをしなくてはならない、何かもうニューヨークにその時点で空恐ろしさを感じた次第であります。チェックインが終わり今度はシャワーを浴びようと思いましてシャワーをひねると、茶色い水がどんどん出てきてさらに驚かされた記憶があります。
次の日は朝、ホテルの近くを歩き、朝食を食べるところを探しました。あるレストランを見つけて中に入り座りましたら、しばらくするとウエイトレスの人が来て注文を取ってくれるのかと思いましたら注文も聞かず、何もする前に私のテーブルをコンコンと叩きまして、「you、chip、chip」と言うのです。私は最初何を言っているのかさっぱり分からず、途方に暮れていたのですけれども、取り敢えず簡単な卵料理とトーストを頼んでその場は出てきたのです。後から聞いた話ですとその当時日本人の観光客が特に農業関係の方が多くて、ニューヨークに来てもチップを日本人は置いていかないという噂が非常にあったという事で、おそらくそのウエイトレスの方も私を日本人と見なして先にチップというのを要求したのではないかと理解しました。その後私もアメリカのレストランでウエイターとして働く機会がありました。そこで分かったのは向こうでの飲食業でサービスする人達はその週の最低時間給しか賃金が支払われていないのです。そうするとその最低時間給ではほとんど生活していけませんので、お客様から入るチップによって普通並の生活に近づけるという事ですので、いかにアメリカに於いてサービス業に従事している方達のチップという比重の重さがあるというのは痛感いたしました。
ニューヨークでは2年間ベニハナオブトウキョウで働きました。そのベニハナオブトウキョウというレストランは丁度マンハッタンの中心部に位置していた為に、多くの有名人や桁違いのお金持ちが来ていました。余分な話をしますけれども、亡くなったジョン・レノンという歌手に何回か会った事があります。その2年間の間に様々な経験をしましたが、最初に驚いたのがその当時、ベニハナオブトウキョウに来られるお客さんのほとんどが現金で支払いをせずクレジットカードで支払いをしていた事にまず驚きました。30年前くらいに日本で、クレジットカードで何かお金を決済するという事が私にはあまり記憶が無かったので、アメリカの社会というのはお金を持たずカードですべて支払いをするという事に驚かされました。チップもテーブルに現金で置いていくのではなく、クレジットカードの伝票にチップ10ドルとか5ドルとか書くのです。これ自体にも驚かされました。その当時現金を持ち歩く事はニューヨークでは非常に危険な事でしたので、財布の中には20ドルか30ドルくらい持っていれば十分だと言われていました。
またベニハナオブトウキョウというレストランでは様々な人種が中で働いておりました。その中で特に印象が強かった人はイラン人の人です。この人達はDishwasher、いわゆる皿洗いとして仕事に就いていたのですけれども、1日のある特定の時間が来ると彼らは仕事を止めるのです。そしてエプロンをはずし、ある決まった方向を探し、そこにエプロンを敷き、アラーの神を唱えるのです。これはレストランがどんなに忙しい時間帯であろうと関係なく、彼らがある決まった時間になると自分達の宗教の儀式に従った行動をするのです。膝を床に着け、手を上下に挙げ、アーアラーと唱えるのです。どんなにレストランが忙しくても彼らは宗教の教えに従っている様でした。日本人の宗教観とは全く異なる考え方を持って、また信心を持っている事に驚きました。また1年に1回か2回、入国係官、英語でImmigration official という人達が突然仕事場に入ってくるのです。仕事をしている皆に向かって Hey,You guy! Frieze ,Don’t move. 動くなと。それで彼らが皆1人1人に労働許可証を出して見せろと。その場で労働許可証や正式のビザを持っていない者はその場で手錠を掛けられます。それで連行されます。また私の住んでいるアパートにも来たことがあります。正式な労働許可証を持っていない場合はその場で逮捕され、強制送還されていた事を覚えております。その様なシーンを見ると、実際に何か映画を見ている様な感じでした。私はグリーンカード、永住権を持っていたので捕まる心配等はありませんでした。
ベニハナオブトウキョウで2年間働いた後はもっとアメリカの内部、それと英語、アメリカの言葉を知りたくなり、ベニハナオブトウキョウを1度辞めてニューヨークでイエローキャブ、要するにタクシーです。タクシーの運転手をしました。タクシーの運転手は1年間、ニューヨークでしました。まずニューヨークでタクシーのドライバーになるには、ニューヨーク州のタクシーの試験に合格しないとならないのです。私は向こうから見ると外国人でしたので、まず最初に英語の試験を通らなければ実際のペーパーテストを受けることが出来なくて、ます試験官のところへ行って英語がどのくらい出来るかを試させられました。その時の様子は試験官が自分の後ろにある本棚から適当に本を取り出して、適当なページを開けるのです。私にその本を放りだして、そこのページを全部読めというのです。それで自分が読んで、その読んだ内容に対して質問がいくつかされて、ある程度理解していると見なされると「お前、英語は合格だ」と、それでペーパーテストを受けなさいと、その様な感じでした。私はベニハナオブトウキョウで働いている間にオートバイを買いまして、マンハッタンの中の全道路の地名の殆どを1つ1つ全部丸暗記していましたので、無事に試験は合格いたしました。向こうのタクシー運転手ペーパーテストの内容は、日本の二種の様な試験の内容と違いまして、殆どが地理に関する問題でした。例えば「ニューヨークのジョン・F・ケネディエアポートからマンハッタンに1番近い道はどこか」とか、「マンハッタンに橋がいくつも架かっているが、その中の橋の名前を言いなさい」、「マンハッタンで1つだけ斜めに走っている道路がある、その道路の名前は何か」、それから「距離がどのくらいあるか」など、殆どタクシーの運転手になってすぐに実用的に知識が必要となるような試験の内容だったのを覚えています。そのペーパーテストが受かった後に、今度は病院に行って身体検査を受ける事になりまして指定された病院に行きまして、身体検査を受ける事になったのですけれども、驚いた事に医者に言われたのは「裸になれ」と。何の為に素っ裸になるのか、私もよく分かりませんでしたけれども、後から分かったことは身体に麻薬をしている痕(あと)が無いかを調べる事でした。その様な様々な変わった経験をしまして、タクシーの運転手になりました。私の勤務時間は朝5時から夕方の3時頃でしたので、殆ど最初に朝拾うお客様はマンハッタンで働いている娼婦の人達がお客様でした。その様な娼婦の人達を乗せると女性の生き様というのを感じせざるを得ませんでした。ニューヨークに住んでいる間のある晩、夜に飲みに出かけまして自分のアパートに帰る途中、1人の17、18歳の黒人女性を見かけましたので、こんな夜遅くマンハッタンで1人で歩いているのは危険じゃ無いかと思いまして声を掛け「どうしたの」と尋ねるとその女の子は家出をしてきて全く行くところも無く、誰も知らなくて困っていると、途方に暮れているという様な話をしていました。私も少し酔っていてかわいそうに思い、その晩は私のアパートに泊めてあげました。次の日に出ていきその後は全くどうなっているのか私には分かりませんでしたが、それから数ヶ月経った時に私がタクシーの運転手をしてマンハッタンで有名な42番街というところがあるのですけれども、そこでその黒人の女の子が娼婦として街角に立っている姿を見てびっくりした次第です。
またタクシーの運転手をしている間、ハーレムに客を降ろした後にマンハッタンに帰る途中東洋人の女性が赤ちゃんを抱え、私のタクシーを止めた事があります。止めるとその女性が「クイーンズというところに行ってくれ」と言われ、私が向かっていると、その女性が私に少し話しかけてきました。私が日本人と分かるとその女性も日本人の人で、色々と日本語で話をしました。「今、私はアメリカ人の旦那が飲んで暴れて自分に暴力をふるうので逃げてきたところです。」彼女はアメリカ人と国際結婚した日本人の女性でした。私もアメリカに5年住んでいる間、日本人の女性でアメリカ人と結婚して色々な結果になった姿をたくさん見ました。ある時は小さなアメリカの田舎町に行ってレストランに入ると、そこのウエイトレスが東洋人でしたので声を掛けると日本人だったと。聞いてみるとやはりアメリカ人との結婚生活に敗れ、子どもを抱えて大変な生活をしているという様な事を聞かされた事を思い出します。国際結婚に関して言えば、私の体験した中では殆どの女性が幸せな結果に繋がっていなかった事が多い様な感じがいたします。
またある時白人を乗せた時に「お前はどこから来た」と聞かれ、私が「日本から」と答えると、その白人が「何故お前みたいな日本人が俺の国で働いているのだ、帰れ」と言われた事もありました。その様な時は私は車を止めて、座っている人の後ろのドアを開けて出ていけと、お金はいらないと、お前にその様な事を言われる必要は無いと口返して降ろした事も覚えております。またニューヨークの空港で客を乗せると、住所を書いた1枚の紙を差し出して自分が聞いた事も無い様な国の言葉で何かここに連れて行ってくれと言っている、その様にニューヨークというのは常に世界中の人間が様々な体験に来ている場所でした。
またその当時のアメリカではマリファナというものが非常にはやっていまして、警察官であろうと弁護士であろうと教師であろうと、色々な職業の方達がマリファナを吸っていました。タクシードライバーも例外で無くたばこを吸っていました。客を待っている間にマリファナを吸って、そしてお客さんを乗せていくと。私の記憶ではちょっと日本では考えられない様な異常な世界だったのを覚えております。またその当時は犯罪が日常茶飯事で私の記憶では3分に1回くらいパトカーや救急車のサイレンが鳴ったのを覚えています。
またその当時はちょうど日本の大手企業がニューヨークに支店を開設した時期で、支店長として優秀な日本人がニューヨークに送られてきた当時です。支店長クラスで送られてくる人達は一流大学を卒業したエリートの人達でしたが、アメリカ人との人間関係や文化の違いで悩み、自殺する人が多かったのを覚えています。例としまして、ある日本人支店長が自分の使っているアメリカ人の事務員にお茶を入れてくれと頼んだだけで訴えられたケースを記憶しております。
釧路で生まれ育った私には摩天楼がそびえ立つニューヨークでの3年間の生活に疲れ、大都会を離れ違う場所でアメリカを体験したく、この後フロリダ州の最南端、キーウエストというところの大学に行きました。アメリカは国が広く、場所が違うと言葉や人の感じも違ってきます。キーウエストでは昼は大学に行き、夕方から夜遅くまで地元のイタリアンレストランで皿洗いとしてアルバイトをしました。大学で使われている英語のレベルは非常に高度で、講義についていくのが大変でした。夜のバイトも暑いキッチンで汗だくで働かなければならず大変でしたが、その中で面白い経験をしました。ある日、そのレストランのオーナーが大きなカジキマグロを釣ってきました。このオーナーは大物ねらいのゲームフィッシングが好きで、釣り用のクルーザーを持っていました。彼は店のコックの人達に誰かこのカジキを料理して、店に料理として出してくれるかと聞きました。見ていると誰も手を挙げずオーナーが困っていましたので、それを見た私は手を挙げて、すみません、何か時間が来てしまった様ですので、何か色々書いてきたのですけれども、誠に申し訳無いのですけれども、結論も出ずもう少しお話ししたかったのですけれども、皆さんの時間も過ぎておりますので大変申し訳ないのですけれども、ここで止めさせていただきます。また機会がありましたらお話ししたいと思います。失礼いたします。
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