釧路ロータリークラブ 国際ロータリー第2500地区 Rotary Club of Kushiro
通 算
3449回
2016-2017年度
第35回 例会報告
2017年4月6日
例 会 内 
「 毬藻とその命名者 川上瀧彌 」
講師 釧路市教育委員会生涯学習部阿寒生涯学習課 マリモ研究室長 若菜 勇 様

   お客様の紹介
 釧路市教育委員会生涯学習部マリモ研究室長・若菜勇様

会長の時間
会長挨拶 木下 正明会長

 皆さん、こんにちは。

今週の月曜日、4月3日から情報集会が始まっております。私に大変厳しいテーマでして、『本年度会長テーマの検証と今後の取り組み方』ということでございます。私に「ダメ出しをする会」ではないかと思ってビクビクしているところでございます。すでにDグループを皮切りにF、Cの3グループが終っています。私はDグループで最初だったのですが、吉田情報委員長に来ていただきまして、非常に温かいお言葉をいただきつつ、少し厳しいお言葉もいただいた有意義な会でした。他のグループには私がいないものですから、もっと厳しい事を言われているのではないかと思っております。発表がとても楽しみです。

自分のグループに出席できない場合は他のグループに参加できます。本年度会長に一言申したい方は、まだ5グループ残っておりますので、そちらにご参加いただき言いたいことを全部言って、発表に繋げて欲しいと思います。

 このあと若菜さんにご講演いただきます。若菜さんは、日本のというよりも世界のマリモ研究の第一人者と言える方です。また、川上瀧彌さんという北海道に関係がある方も出てまいります。台湾では非常に有名な方です。本当に楽しみにしております。よろしくお願いいたします

本日のプログラム
『毬藻とその命名者 川上瀧彌』

釧路市教育委員会 生涯学習部 阿寒生涯学習課 マリモ研究室長 若菜 勇 様

 

 皆さん、こんにちは。釧路市教育委員会マリモ研究室の若菜でございます。本日このような場にお招きいただきましてありがとうございました。

ご記憶の方もいらっしゃると思いますが、前回は、2013年11月にここでお話しをさせていただきました。そのときは、「世界自然遺産の可能性が阿寒湖エリアで高まって来た」ということで、どのような背景なのかをご紹介したと思います。

その後、特に2013年・2014年に環境省が中心となって、阿寒湖一帯の湖沼調査が行われて非常に良いデータが出ました。それをさらに論文としてまとめなければならない段階に達したのですけれども、いろいろな課題が新たに出て来て、その調査を継続する必要があったものですから、「その自然遺産の話は終っていないのか、それともポシャっちゃったのか」とよく聞かれますけれども、着実に進んでいるのが現状です。

国レベルでは、既に国内候補地の中でまだ登録されていない琉球奄美が残っておりますので、例えばヤンバルや奄美群島の国立公園指定など、登録に向けて様々な動きが進んでいるところです。

 阿寒地域は、その自然遺産の話が進む中で、皆さんもご承知と思いますが、「国立公園満喫プロジェクト」とか、国による阿寒国立公園の整備計画が入ってしまったものですから、中心となる環境省をはじめとして「自然遺産どころではない」と言うわけで、世界自然遺産の方は、いま一息ついた状態ですけれども、来年くらいからまた活発に活動が始まるだろうと思います。

本日は、そのようなお話しから少し外れて、今年は、阿寒湖でマリモが発見・命名されてから120年の節目を迎えます。この発見・命名された方は川上瀧彌(かわかみ たきや)という方です。これから詳しくご紹介いたしますが、北海道大学の前身・札幌農学校の学生でした。この方が「マリモ(毬藻)」と命名したのですけれども、地元阿寒をはじめ北海道ではそのようなことしか川上瀧彌さんについては知られていませんでした。

川上瀧彌は農学校卒業後、台湾へ渡って様々な活動をする中で、一言で言うと台湾の博物学の基礎を作る仕事に当たります。そのようなことが縁で、特に初代館長を務めた国立台湾博物館との間で何度かやり取りがありましたけれども、事業レベルで交流を図ることができませんでした。

釧路は、皆さんご承知のようにタンチョウを台北の市立動物園に譲渡するような活動が行われております。あるいは、子供たちが中心となったキッズロケットの活動と、いろいろな民間ベース、行政ベースでの交流がありました。今回、この120年の節目に何とか実現したいと思い、また以前から「マリモでも何とかならんのか」と蝦名市長からもお話しがございまして、今回いろいろな意味で満を持して、この事業を実現することができそうなことになりました。

この事業を進めるにあたって木下会長さんには、交渉事から様々なことでお世話になっておりまして、このような方々のご支援がなければ今回の事業実現には至らなかっただろうと思います。改めましてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

本日は、駆け足で川上瀧彌とはどのような方だったのかということを皆さんにまず知っていただきたいと思います。

マリモの発見から120年ということですから、1897年にこの川上瀧彌が阿寒湖一帯で植物調査を行います。当時、阿寒は全く開発されておりません。道庁が雌阿寒岳の山頂で気象観測を行うことになりました。このとき、いわば人夫兼植物調査担当ということで彼が入る訳です。ここに有名なマリモが発見されたときの記述がありますけれども、「シリコマベツの辺り一奇藻あり、云々」、こう書いてあります。その後で「形にちなんでマリモと私が命名した」ということが書かれてあります。

川上瀧彌の仕事については、これから詳しく皆さんもご紹介していく機会があると思いますけれども、実はこの論文の中に、当時のアイヌ民族が動植物をどう呼んでいたかとか、どのように暮らしをしていたかも描かれていて、まもなく発刊されます釧路叢書の中でその中身についてもご紹介しておりますので、発刊されたときにはご覧いただければと思います。

私が阿寒に着任したときは、この程度のことしか分かっていなかったのですが、その後いろいろ資料が集まる中で、川上瀧彌の人となりが少しずつ分かって来ました。

生まれは、1871年、山形県飽海郡松嶺町、昔の松山藩です。お父さんは藩士のお婿さんということで、その次男として生まれました。面白いことに、子供の頃から植物の勉強が好きで、聞かれたことがあると思いますけれど宮部金吾という、後の北海道大学の植物学の超大物の先生から、地元にいる頃から指導を受けていて、それが縁で札幌農学校に入学することになります。

これは、先日、帯広市の上野敏郎さんが手に入れて下さったばかりの家系図です。お父さんの川上十郎という方は新冠の御料牧場に勤めていた方の息子さんで、婿養子として入り、家系は松山藩の砲術を担当していたという武家の一家でした。お兄さんが1人いて、川上瀧彌は次男ということになります。家系図で見て分かるように、川上瀧彌にはお子さんがいません。これが後々ちょっとした話題になりますけれども、川上は44歳という若さで亡くなってしまったことで、後を継ぐ人はいませんでした。

北海道大学で学ぶ中で、一番有名なマリモの発見ですけれども、このときは26歳です。その後、利尻・礼文、アポイなど主要な北海道の山々で植物調査を行って、農学校を29歳で卒業しています。

これは北西側から見た阿寒湖です。こちら側が北になります。これが阿寒湖温泉ですけれども阿寒湖の西にあるシュリコマベツという所でこの球状の緑藻を見つけて「マリモ」と名付けました。これをして彼を非常に有名にする業績になった訳です。

師匠の宮部金吾先生は、海藻から陸上植物から何でもありだったのですけれども、川上瀧彌はどちらかというと陸上植物プラス植物病理学が専門で、卒業研究もそのようなことが対象になっています。その後一旦、熊本県立農学校、現在の熊本大学に教員として就職するのですけれども、その直後に結婚をして間もなく奥さんが亡くなって、それからほとんど時間を経ることなく台湾総督府で働くことになりました。

この総督府時代、実際は12年ほどしかありませんが、非常に様々なことを行っています。先ほど植物病理学が専門と言いましたけれども、農事試験場の技師だったり、教科書を作ったり、ゴマ栽培を行ったり、これから出て来る博物館の設立と運営にも関わることになります。その一方で、積極的に台湾や南方の島嶼(とうしょ)における植物調査を行って台湾植物目録をはじめとする何冊かの本を取りまとめました。非常に短い期間でいろいろな業績を残した方ということになります。

亡くなる年の6月、この2カ月ほど後に亡くなってしまうのですけれども、恩師の宮部金吾先生宛に「台北での生活はなかなか厳しい」とか「一度来てくれないか」ということを手紙に書いています。このような文面から、ある種の心細さみたいなものを感じこともできるように思います。

 

これが、これからお話しをする国立の台湾博物館です。

皆さんご承知のようにこの時代は日本統治下で、台湾総督であった児玉源太郎などの業績を記念するための博物館として建設されました。

その開設から間もない1915年、展示の準備をしている中で病に倒れて亡くなってしまうという本当に駆け足のような人生だったのです。

これは、木下会長からお預かりした資料ですけれども、初めの博物館は1908年に設立されて、その100周年の記念事業としてこの立派な本とDVDが作られました。この中身はというと、日本統治時代にこの博物館の建設や初期の立ち上げに活躍した日本人研究者の業績を振り返るという内容になっています。

本日は、後半でこのDVDからどのようなことが行われたのかを紹介しますけれども、この本の中でも川上瀧彌のスペースは大きく取られていて、先ほど会長からもお話しがございましたように、台湾でいまなおその業績と人柄が偲ばれています。特に2015年の没後100年では台湾博物館などが中心となって、このような記念事業が次々行われて、記念誌や記念論文が発刊される状況にありました。このようなことを受けて、これから私たち日本側も、川上瀧彌をキーとする交流を続けていこうと思うのです。それでは、台湾でどのように受け止められていたのかをこのDVDでご覧いただければと思います。

 

 

DVD上映 鑑賞しながら解説

 

 解説は台湾語ですけれども、漢字で大体どのようなことを説明しているかということはお分かりいただけると思います。タイトルにもあるように、日本統治時代の日本人研究者の足跡であります。

 

この2008年の100周年では、特別展の他に、これからご紹介する開設時に活躍をした日本人研究者のご子息やお孫さんなどの子孫に当たる方をお招きしてレセプションを開いています。

このあと、「児玉源太郎が云々」と出て来ますね。

 

開設時には、この入口のホールに、児玉源太郎と民政長官を務めていた後藤新平の彫像が飾られていたそうです。

これは、特別展が始まる直前の準備の様子です。

 日本から子孫に当たる方をお呼びしてこれからレセプションが始まるのですが、残念ながら先ほど家系図でご説明したように、川上瀧彌にゆかりのある方はこのとき探し出すことができなかったそうです。

このフィルムを作った方は日本人ですけれども、その意味で初代館長を務めながらも川上瀧彌については分かっていないことが多いということを産経新聞に書かれていたと思います。

 

私たちは川上瀧彌を通じて交流を始めるまで、日本統治時代の研究者がどのように台湾で受け止められていたかということを知る機会がなかったのですが、このような形で大切に思っていただいていることが分かります。

 

(DVD音声・日本語部分を収録)

島田彌市氏子息

「私たちの祖先というよりも、祖父や父が台湾の博物の創生機において成してきた事績に対しまして、今回、また光を当てていただきましたということは非常に嬉しいことでございました。台湾に育ちまして、台湾のことを母国と考えております。今後とも交流が深まることをお願いいたしましてご挨拶といたします。どうもありがとうございました」

(DVD音声を収録、一旦終)

 

 このDVDでは、何名かの日本人の足跡をたどる中身ですが、この島田(彌市)さんという方は、川上のいわば助手役として植物採集を担当された方です。それから総合博物館ですので植物だけではなく、岡本(要八郎)さんは鉱物のスペシャリストでした。素木(得一)さんは昆虫がご専門です。いまもこの台湾博物館は自然科学だけではなく、歴史についても展示研究を行っていますが、堀川(安市)さんは博物学がご専門だったそうです。民俗学を担当した尾崎秀真(ほつま)。この方は、ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実(ほつみ)のお父さんです。この方は原住民の調査を担当した森(丑之助)さん。

このように立ち上げの初期に多くの日本人研究者が関わっていた。そのことがいま100年経ってもしっかりと評価されていることは非常に重要なことだと思います。

 そして、川上瀧彌になります。「熱愛植物採取的云々」とありますけれども、この植物大好きの様子は、マリモの発表論文の中にもいろいろなところで「ああ植物が大好きなのね」ということが分かる書き方をされています。

 

(DVD音声・日本語部分を収録)

「これは何植物学雑誌のちょうど34号の中に瀧彌のマリモの下りが書いてあるところをちょっと取って来たのだ」

「ありがとうございます本当に」

 

「これは覚えやすいのだよ。13年の7月に第1期生、13人が卒業している。その中の一番の年長者は佐藤昌助というここの総長などをした人間ですけれどね」

「台湾にもいらしています」

「だけど2期生の方が有名なの。新渡戸や内村鑑三、宮部金吾などが2期生なの」

(DVD音声を収録、一旦終)

 

卒業のときの写真です。

台湾へ渡る前の家族の記念撮影で、お兄さんとお母さんが写っています。

それから一番左の方は、同郷で友人の星野(勇三)先生です。

卒業論文は、稲の「いもち病」に関係する研究です。

それから彼の代表作である『はな』という出版物です。

川上が何冊か出版した東京の生物学専門の「裳華房」という本屋さんです。

 

(DVD音声・日本語部分を収録)

「『はな』でも、大変な手作りみたいな本ですね」

「そうですね」

「挿絵も、すごいですね。版画のように1枚1枚を職人さんが版画で薄紙を挟んで。昔からそうだったのですかね、この頃の方法としては」

「この当時はそうですね」

「人の名前ですか。普通は自分の奥さんという意味ですかね。これは」

「奥様ですね」

「そういう意味ですね」

「病気で亡くなられて、ということなので、奥様のちとせさんとおっしゃるのか」

(DVD音声を収録、一旦終)

 

4カ月だけの新婚生活だったそうで、著書の中に感謝の言葉が書かれてあります。

ここまでが彼の学問上の業績ですね。

最後は博物館建設のお話しです。

 

DVD鑑賞終了

 

 駆け足で川上瀧彌についてご紹介をさせていただきましたが、私たちとしては、単にマリモ発見・命名者というだけではなくて、日本と台湾を結びつける非常に重要な方だという再認識を持ってこの業績を評価することで、これから先、特に釧路と台湾との間の学問だけではなくて、いろいろな新しい交流に結びつけていければいいなと考えております。

 本格的な事業は、秋以降、まず10月に台湾から川上瀧彌についての論文を書かれた先生をお招きしてシンポジウムを開きます。その後、11月末か12月初めから国立台湾博物館でマリモの展示を行う予定です。展示に使うマリモは、研究で私たちが「Myマリモ」と称していますけれども、実際に水槽の中で栽培をして育てたマリモを持って行きます。台湾では「このコンテンツを使って常設展示をしたい」とおっしゃってくださっています。それから、マリモを使った学術研究の交流などにも繋げて行ければと思っております。

 本日は、マリモの話ではありませんでしたが、非常に良い機会だったものですから川上瀧彌についてご紹介をさせていただきました。

ご静聴ありがとうございました。

会長謝辞 木下 正明 会長

 若菜様、本当に貴重なお話しをありがとうございました。

私も恥ずかしながら、釧路日台親善協会に入会して台湾の方との交流が始まるまで、川上瀧彌という方を全く存じ上げておりませんでした。

台湾の方に「台湾の建国と歴史に寄与した日本人5人は?」と尋ねましたら、新渡戸稲造と川上瀧彌、北海道に関係がある二人が入っているということでございます。

 今回、マリモ命名120年ということで、12月に台湾へマリモが行きます。川上瀧彌の業績が、特に日本人の中には浸透していないので、それを広めていただくお仕事をしていただけることを大変ありがたく思っています。

本日は、そのようなお忙しい中でご講演をしていただきましてありがとうございます。釧路ロータリークラブも中心となって設立されました日台親善協会も協力をさせていただきまして、良い業績を上げたいと思っておりますので、12月には皆さんと台湾へ行きたいとも思っております。本日はどうもありがとうございました。

  

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